古びた静かな場所です。
古びた静かな場所です。
ここで一人静かに昼食のおにぎり🍙を食べました。
この近くにヘリコプターが墜落しました ご冥福をお祈りします。
乙母八幡神社(おともはちまんじんじゃ)御祭神 誉田別命(応神天皇)神社検索サイトによっては、同一住所で「宇佐八幡宮」と表記されています。
届出名称と呼称の違いは、神社の由緒や歴史などを調べるとき混乱しますが、逆に役立ったりする場合もあります。
上野村指定重要無形文化財「乙母の太々神楽」乙母神社の神楽殿に「八幡神社太々神楽装束寄付連名書」明治三十年(1897)九月という神楽の起源を示す掲額があります。
埼玉県吉田町(現秩父市)の「貴布称神楽」には、明治三十年代、乙母へ三十六座ある演目の神楽を伝承したと記述されています。
江戸の里神楽系統の秩父系であり、現在は十三座を継承しています。
乙母神楽の特徴として陰囃子があり、神楽殿背面の切窓は以前、出囃子用の舞台があったのではと思われます。
(境内案内板より)八幡神社御神輿川下げこの祭典では神流川にお神輿を下ろして清める神事「お川下げ」が行われます。
お川下げでは猿田彦を先頭に集落を行列が練り歩きます。
その後、八幡神社では秩父から伝わったとされる「太々神楽」の奉納が行われます。
川和諏訪神社獅子舞と同じ日に行われるため、二つの異なる祭りが楽しめます。
(「上野村HP」及びYoutubeチャンネル「群馬県 多野郡 上野村 Ueno-village」より)上野村の人の歴史は古く、村域の中央を流れる神流川の周辺からは、縄文土器や石器類の出土が見られ、神話の中では、日本武尊が軍勢を率いてこの地を通過した、などの伝説が残っています。
村落としての発祥は、文治年間(1185~1189)木曽義仲の家臣、今井四郎兼平の一族が追われ、この地に土着したことが最初だと伝えられています。
その後、武田の家臣小幡守総介の支配となり、天正十八年(1590)、徳川氏が関東を統一し、慶長八年(1603)の開幕に伴い、幕府直轄の天領として代官支配地となりました。
江戸時代は、幕府の天領として、「山中領・上山郷」と称し、乙母、川和、勝山、新羽、野栗沢、乙父、楢原の七つの郷村に分かれていました。
当時は将軍家に献上する鷹の繁殖地とされ、御守林として総名主のもとに管理されていました。
寛永八年(1631)には、佐久地方からの米穀移入が行われていた十石峠の麓に「白井関」が設けられ、信州路への取り締まりが強化されました。
その後、明治二十二年(1889)、町村制の施行により七郷村が統括され、明治二十九年の郡の統廃合により、現在の「上野村」の形となり現在に至っています。
(「上野村HP」より)
その昔、木曽義仲が戦いに敗れたとき、四天王のひとりであった今井四郎兼平の子が、家来と乳母に守られて、この地に辿り着きました。
この乳母が住み着いた場所が乙母(おとも)という地名になり、家来が住み着いた場所が乙父(おっち)になったと言われています。
または今井一族が落ちてきたところが乙父で、お供が住んだところが乙母(おとも)であるともいいます。
この辺りには安倍貞遠の一族が、陸奥から逃れてきて隠れ住んだという言い伝えもあり、実際に追っ手の目を逃れて、山中深く分け入った人々がいたかも知れません(^_^ゞ
こじんまりとした神社でしたが、とても風格と歴史を感じ、思わず車を止めて参拝いたしました。
ヘリコプター墜落現場 ご冥福をお祈りします。
名前 |
乙母八幡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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評価 |
3.2 |
山と渓谷や岳人などの雑誌で笠丸山の紹介で出てくる。
笠丸山に向かうとき乙母神社バス停で下車をする。
乙母八幡神社 母字藤沢祭日には神輿を川瀬に下す儀式が今尚行われている。
との紹介しか見つからなかった。
群馬県多野郡誌より。