玄関あいたのでお声かけして少ししたら出てきていただ...
社宝には蕨手刀(県指定重要文化財)がある。
1300年前の物らしい。
2022/04/20にNHK「歴史探偵」でいろいろ調査がされている。
霊験新たかな歴史ある社殿に、凛とした静寂な佇まい。
ぜひ一度ご参拝をお勧め致します。
東吾妻原町鎮座。
旧郷社。
さいたま市大宮氷川神社を配祀。
たまたま社務所に宮司さんがいらっしゃりスタンプ式御朱印頂きました。
¥200。
宮司さんは、伊勢神宮に務めて、宮司になられ、境内に祀られる伊勢神宮の分社は伊勢神宮で使われた木材で造られている。
と境内を掃除していた、神社の方に聞きました。
旧社格は郷社。
国史見在社の「稲裹神社」と同一視される古社だが、その根拠は乏しい。
現在も地域と密接な関係にある、活気ある神社。
境内の御神木のケヤキを含め、他のケヤキも樹高が結構高いと思いました。
通りすがりに、神様に呼ばれた気がしたので、挨拶しました。
最初お部屋電気ついていて誰もいなく、玄関あいたのでお声かけして少ししたら出てきていただけました。
御朱印頂きました。
この神社の歴史が書かれた資料一枚貰いました。
ありがとうございました。
大宮巌鼓神社 (おおみやいわつづみじんじゃ)御祭神 日本武尊 弟橘姫命 素盞嗚命 保食命配祀神 菊理姫命 菅原道眞 宇迦御魂神 大雷命 大國主神 鹿屋野比賣命 伊弉册命 奇稻田姫命 建御名方神 大山祇命 大物主命由緒吾妻町大字原町字大宮に鎮座す。
字号之に起ると云う。
原町一円を氏子区域とす。
由来当社は武将民衆の尊崇頗る厚く、天正十八年北條家朱印、宝暦以降真田家黒印の社領を附せらる。
明治維新の後郡官の設ありてより郡官本社に参詣することその例たり。
明治四十年本 町各所の無格社数祠を併せ維持方法を確立し、大正四年八月十三日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、昭和十六年五月五日郷社に列格す。
境内に末社数祠を祀る。
八幡宮、宇婆神社、神明宮等之なり。
就中、宇婆神社は保姆の神として信仰近隣 に及び、神明宮は神宮古殿材を拝戴し、以て広く郡内に浄資を勧募昭和五十年四月五日創建す。
(境内由緒書より)当社の創祀年代は不詳ですが、千年以上前だと考えられています。
吾妻太郎行盛が武州氷川明神を配祀し、以来武将・民衆の崇敬篤く、天正十八年(1590)北条家朱印、宝暦(1751~1764)以降は真田家黒印の社領を寄進された神社です。
明治六年(1873)村社に列し、明治四十年(1907)近郷の数社を合祀し、昭和十六年(1941)郷社に昇格しました。
社宝には蕨手刀(県指定重要文化財)があります。
神明宮、八幡宮、宇婆神社などの境内社があり、石祠も複数祀られています。
神明宮は、伊勢神宮の古殿材を用いて創建されたといわれています。
また、宇婆神社は保姆の神として崇敬されています。
一般に吾妻の語は、碓氷の嶺に立った日本武尊が、見渡す雲海から海を連想され、走水で入水された弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたとことに由来するとされていますが、当地では以下の話も伝わっています。
当地の長者の娘に、上妻姫という美しい姫がいました。
日本武尊が東国平定の帰路、姫の美しさに心奪われ、姫は尊の子を宿します。
尊は、姫に「お前は私の妻である」「今日からは吾妻姫と名乗るように」と言い「吾妻や妹背と契る言の葉もこれぞ別れの形見なるらん」と歌を残して都へ戻ります。
信州との境の峠(鳥居峠)で姫を偲び「吾嬬者耶(あずまはや=ああ、わが妻よ)」と嘆いたといいます。
これが「吾妻」の語源といわれています。
この吾妻姫(上妻姫)の生んだ子が大若宮彦といい、大宮や巌鼓尊と呼ばれて祀られたのが当社であるといわれています。
また、四万川の上流にある稲裹(いなつつみ)神社が当社の巌鼓(いわつづみ)と関係があるともいわれています。
「三代実録」に元慶四年従五位下を授けられた稲裹地神の名が記されており、『上野国神名帳の研究』では、当社が稲裹神であると記されています。
町外れの小さな神社だが、周囲は巨木に囲まれ雰囲気はとても良い感じ。
社務所でいくらピンポンしても誰も来ず、御朱印あるかどうかも不明。
御朱印を頂きました。
名前 |
大宮巌鼓神社 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0279-68-2006 |
住所 |
|
評価 |
3.6 |
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駐車場があり🚗御守り販売や御朱印が頂けるそうです。
境内は綺麗に整備されていて清々しさがあります。
御神木は生命力と迫力がすごくて立派でした!!