立身出世のあやかり神社。
立身出世のあやかり神社。
隣で売ってる太助饅頭が旨い。
塩原太助翁小伝塩原太助は寛保三年(1743)に生まれ、幼名は彦七、父は塩原角右衛門、母は「とめ」と云いました。
或る日、江戸に出て身を立て家を興そうと父に願い出ましたが許されず、ついに或る朝未明に草刈に出かけるように装って日頃飼いならした愛馬「あお」を引いて家を出ました。
この時「あお」をつないで別れました(別れの松が香才ヶ原にあります)。
時に宝暦十一年(1761)榛名の御師の山本坊に寄り、僅かばかりの旅銀を借り受け江戸に出ました(太助十九歳の時でした)。
江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、ついに思い迫って死のうと決心し、神田昌平橋から身を投げようとしました。
その刹那「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が炭商山口屋善右衛門です。
太助はここで奉公を続け、朝は星を戴いて起き、夜は人声の鎮まるのをまって寝ました。
他の奉公人の休む暇には穿き古しの、はき物の鼻緒などをすげ替えておいて俄の場合の役に立たせ落ち散ってある縄屑などは拾い溜めておいて炭俵のつくろいなどにつかいました。
この様にして、奉公人の鑑とまで感心される様になりました。
また翁は山口屋に奉公して五年目に、翁が毎日炭荷を積んだ車を引いて通る湯島無縁坂の改修、晩年、中山村の反峠に渋茶の接待所、伊香保より榛名神社に通ずる、天神峠に常夜燈を建て往来の者の便を計りました。
翁は山口屋に奉公したのが、実に二十三年、その間まめまめしく良く勤め、ついに本所相生町に店を構え巨万の富を築き公儀のお金御用を勤める身分となって、「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」と云われる様になりました。
翁は文化十三年(1816)七十四歳で没せられました。
(境内案内板より)明治に入ってから「塩原太助一代記」が出版されベストセラーになったり、その後も歌舞伎や落語も演目で度々扱われています。
「報徳太助神社」は豪商塩原太助翁にあやかり、商売繁盛や出世の御利益があります。
神社の東隣に「太助の郷」農産物直売所があり、「塩原太助記念館」が併設されています。
国道17号を挟んだ向かい側にある「太助ドライブイン」では、「太助饅頭」が作られています。
(サイト「群馬B級スポット」より)
名前 |
塩原太助神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.2 |
上毛かるた縁の地を巡っていて行き着きました。