武家との対面に使われていました。
武家との対面に使われていました。
儀式を行う場所だけでなく、武家との対面にも用いられた。
寝殿造りと書院図栗の融合したような様式の建物。
1867年の王政復古の大号令が発布された夜に行われた小御所会議の舞台である。
ただし、建物は昭和期に復元されたもの。
お内裏様にお雛様と右大臣、左大臣でしょうか?
ε-(´∀`*)ホッ
1868年1月3日、明治天皇(16才)参席のもとで行われた会議は、時代の流れを読めない山内容堂の発言の為に、歴史は逆行するところだった。
一瞬早く政権を返還し、自らの安泰を図ろうとする姑息な慶喜。
不参席の慶喜は、この会議の結果を受けて、徳川が新政府の潜在的主導権を握れると錯誤、また自ら外交権があると思う始末だ。
ここに至って薩長の堪忍袋の緒は切れた。
朝廷より徳川追討令(密勅)が出されたのだ。
偽勅の可能性もあるが、大きな歴史のうねりの中でそれは何の意味も持たない。
逆に言えば、この日の中途半端な会議が、薩長の大いなる決意を引き出したことになる。
同年1月27日、鳥羽伏見の戦いは始まった。
それは明治日本の始まりの第一日目だった。
日本の運命を決定した小御所会議。
その議論沸騰した部屋の目の前に自分がいる。
実に不思議な感じだ。
いま小御所は観光客のざわめきの前でただ静まり返っているだけだ。
名前 |
小御所 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
https://sankan.kunaicho.go.jp/multilingual/kyoto/place11.html |
評価 |
3.9 |
明治維新の決定的現場。