階段急にで怖い古いから仕方ないけど…
旧岡崎家能舞台, 旧小樽区公会堂 / / .
歴史ある建物で指定建造物?にも制定されているのですが、中に入れて、能楽の展示等も行っていました。
見所は能楽が実際に行われていた所ですね。
歴史ある施設。
階段急にで怖い古いから仕方ないけど…
函館にある公会堂と違い、小樽の公会堂は純日本風なので対比が面白いですね。
能が出来たりするので、展示物もかなり能関係が充実してます。
旧小樽区公会堂市指定歴史的建造物第12号⇒1911(明治44)年、皇太子(後の大正天皇)の本道行啓に際してのご宿泊所として建てられた。
この時、小樽区へ寄付を申し出たのが、海運商として名を馳せた藤山要吉。
和風建築様式で、御殿、本館、付属建物からなる。
元々は道路を挟んだ向かい側小樽市民会館の場所に建てられたが、1961(昭和36)年、現在地に公会堂を、回転させながら100m弱を曳家している。
元々の公会堂は、現在正面に見える洋室棟と、体育館側にあり正面からは全貌が見えない和室棟が、平行に裁判所に向かって建っていた。
それを現在地では用地面積の問題でL字型に移動させている。
公会堂1階と地階の間に鉄筋コンクリートで土台を作り、その上に洋室棟を135度ほど回転させて移動してきている。
片や後ろにあった和室棟は45度くらいの回転で体育館側へ移動した。
現在の洋室棟は正面玄関からまっすぐの1号、2号会議室となり、和室棟は松、竹、梅の和室としてお茶会などに使われている。
この2棟は直角の位置関係にある。
地下の大ホール等はこの時、鉄筋コンクリートの土台の下に新築されたもの旧岡崎家能舞台荒物雑貨商として財をなした岡崎謙が、1926(大正15)年、入船町の自宅中庭に建てたもので、後に市に寄贈され、1961(昭和36)年、現在地に移された。
檜の舞台をはじめ、要所には佐渡産神代杉(じんだいすぎ)が用いられ、格式にのっとった能舞台で東北以北唯一のもの。
鏡板の老松、唐獅子、若竹は狩野派17代秉信(もちのぶ)が描いたもの📖小樽問答1955(昭和30)年3月11日に、創価学会と身延日蓮宗との間で行なわれた。
創価学会では、この問答によって学会の正義を社会に証明したと喧伝する。
当初の取り決めでは、入場者数は学会側・身延側とも同数とし、会場内も演台に向かって右半分が学会側、左半分が身延側と決められていた。
学会側はこれを無視。
学会側席を埋め尽くしただけでは足りずに、身延側から抗議があったにもかかわらず、身延側後ろ半分も学会員で占拠。
結果、入場者数は、学会側の約750名に対し、身延側は約300名と、著しく不均衡な数字となり、身延側に精神的な圧迫を加えることに成功。
討論となると、学会側司会役を務めた池田大作が、事前の取り決めの甘さにつけ込み、司会の立場を越えた行為を繰り返した。
池田は、身延側の登壇者が言葉に詰まったかと見るや、間髪入れずに「講師の方はどんどんお話しになってください」「講師の方は続行してください」「あと1分30秒です」「あと1分」「あと30秒」と、登壇者をせかして揺さぶる。
さらには、身延側登壇者の発言を半ば強引に中断させる、学会側登壇者の説明不足に対する場内質問者の不満の弁を強引に押さえ込む。
また、採決についての取り決めが曖昧だったことにつけ込み、身延側司会者の抗議をよそに「身延派の先生が文証を出した、と思った方は立ってください」「この問題に対して、長谷川先生(身延側講師)の質問に対して小平先生が答えていないという方はお立ちください」と最初から数の少ない身延側を相手に多数決の形を取り、身延側の敗北を脚色し、最後には、これまた身延側司会者の抗議をよそに、学会側に身延の管長への人身攻撃を行なわせた上で、勝手な勝利宣言を行なった。
中立であるべき司会役が、一方的な仕切りをしてまった。
だが池田は、学会側がしきりに飛ばすヤジで場内が騒然となっていることを背景に、身延側を押し切ってしまった。
音声資料の最後は「万歳」の声と学会歌の高唱で終わっているが、これが"学会の正義を社会に証明"した姿だとすれば、とんだ"正義"といえる。
これはむしろ、学会の独善的で横暴な体質を、歴史上に証明した姿というべきだろう。
「小樽問答」は、創価学会員谷紀恵子の折伏した竹森某が脱会し、日蓮宗に帰伏した問題に絡んで、谷ら学会婦人部3人と、日蓮宗妙龍寺佳職ら2人との間で論争が起き、その際3月に御法主上人が北海道に御親教されることを聞き及んでいた谷が、相手の誘いに乗る形で"御法主上人御一行が来道されるので、その際、日蓮宗と日蓮正宗との間で法論を行ない、雌雄を決すべし"と応じたことに端を発する。
そしてこの事実は、創価学会本部と宗務院に伝達された。
これを受けて3月4日、創価学会会長戸田城聖と、宗務院の細井庶務部長早瀬教学部長との間での話し合いがもたれ、戸田はその場で、学会員がそのきっかけを作ったことでもあり、また、法義論争に対する絶対的な自信から、猊下の御親教で多忙を極める御宗門のお手を煩わせるまでもないと、法論は一切、創価学会で引き受けることを申し出た。
すなわち、戸田城聖が『小樽問答誌』に「当日は日蓮正宗法主水谷日昇上人が北海道御親教の途路、小樽へ立ち寄られる日である。
両尊師の御心配も当然のことである。
そこで私は事重大でもあるし、かつはまた信仰も哲理もないエセ日蓮宗身延山が法論をしかけるのは片腹痛いと思った。
そこで即座にこの法論は私がお引き受けいたしますから心おきなく法主上人のお供をしていただきたいと申し上げた」と書いている。
ところが創価学会では、近年これを、宗門が、御法主上人御一行の小樽入りの日程を、11日から10日に変更したことを奇貨として「法論から逃げた」「早瀬(教学部長)が戸田先生のもとを訪れ"助けてください"と泣きついた」等と喧伝している。
だが宗門側には、身延との法論自体を逃避せねばならぬ理由など1つもない。
身延各派との法論は過去に何度も行なわれており、彼らの邪義のことごとくが、すでに日蓮正宗によって破折され尽くしていた。
そもそも創価学会が「小樽問答」の中で主張した教義的内容は、全て日蓮正宗の教義によったもの。
与えて言っても日蓮正宗の「代弁者」に過ぎない創価学会に、恩着せがましく言われる筋合いは毛頭ない。
当日、司会として問答を仕切った池田大作自身が、再版された『小樽問答誌』の「序」において「とくに奇しくも、日達上人が、この小樽問答に臨まれておられたのである。
しかも質問者の1人として、学会と一体となり闘魂あふれるお姿で身延側講師を徹底的に追及されたのであった。
私は学会側司会者として、その時、指名させていただいたのであるが、まことに勇気百倍の思いであり、永遠に忘れえぬ感激の一瞬であったことを申さずにはいられない」と述べていることからも、日蓮正宗という後ろ盾があってこその創価学会だったことがうかがい知れる。
しかして細井庶務部長(後の日達上人)は、『小樽問答誌』に掲載された「小樽問答見聞記」と題した一文の中で、「小樽問答」に立ち会うことになった経緯を、「私は法主日昇上人・北海道御親教の随行として札幌の日正寺にいたとき、小樽公会堂で、わが創価学会と身延日蓮宗の公開問答が行なわれることを知って、暇を得て、八木、中村両師と数尺の積雪の中を歩いて、小樽公会堂に聴衆のひとりとして列席して、問答のありさまを親しく見聞することができた」すなわち細井庶務部長は、日昇上人から「暇」すなわち許可をいただいて、問答の現場に出向いたわけであり、言い換えるなら、いざという時には創価学会に助太刀できるよう、日昇上人の御意のもとに参加した形だった。
そして、細井庶務部長は、身延側講師に対する質問という形で創価学会に加勢した。
なお、細井庶務部長は同文の中で、創価学会側講師の弁論に補足説明を加えている。
身延側講師が『御本尊七箇相承』の記述を引用し"「仏滅後二千二百三十余年」と書けとあるのに、戒壇の御本尊には「仏滅後二千二百二十余年」とあるからおかしい"と主張したことに対し、学会側講師が何ら反論しなかったことにつき「本尊七箇の相承は弘安5年で仏滅後二千二百三十余年(大聖人の御計算で弘安4年が仏滅後二千二百三十年にあたる)となるから、以後の本尊は三十余年と書けとあっても、戒壇大御本尊は弘安2年であるから二十余年とおしたためになってあって正しいではないか」と簡便かつ理路整然と破折されている。
つまり、学会側講師がなした弁論のみでは全く不足で、細井庶務部長、すなわち日蓮正宗から見れば、「小樽問答」を記録として残すからには、反論の余地なきよう、きちっと補足しておく必要があった。
要は、その場の勢いでは勝ったものの、冷静な視点で点検すれば、創価学会の主張だけでは完全ではなかった。
心静かに調べてみれば、十分な代弁すらできていなかった。
虫がいっぱい。
函館にある公会堂と違い、小樽の公会堂は純日本風なので対比が面白いですね。
能が出来たりするので、展示物もかなり能関係が充実してます。
名前 |
旧岡崎家能舞台, 旧小樽区公会堂 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.7 |
もっと多様なイベントを行なって文化的価値を周知させて欲しいと思う。