初詣混んでおらずちょうど良い規模でした。
塩冶神社(鹽冶神社) / / / .
出雲市駅近くの神社です。
ウォーキング途中に立ち寄る事が出来ました。
境内の階段を朝早くから掃除されてて、すごく気持ちのいい神社でした。
ここは、小学生の頃から夏祭りや初詣でお世話になってます。
中でも、中学1年の頃に部長が神社関係者という事もあり祭りの手伝いをしたり、祭りの翌日打ち上げを部活のみんなと騒ぐのが楽しかったです。
色んな思い出が詰まってる神社ですu202aw
登り階段はキツかったですが、境内はとても厳かで気分が大変落ち着けました。
歴史ある小さな神社ですが、境内に入ると静かでいい気が流れています。
お近くにお寄りの歳は是非お参りください。
感謝の気持ちでいっぱいです。
塩冶神社様有難うございます!
氏神様として毎年初詣にお詣りさせていただいてます。
大切な氏神さまです。
当神社の宮司です。
毎月1日と15日は午前6時から月次祭を行っております。
祭典後~午前8時までの間は拝殿内で茶話会を行っており、その間はどなたでもご自由に昇殿して玉串拝礼をしていただけます。
その際ご希望の方には拝礼作法や家庭内でのお祀りのについてのご質問を受け付けておりますので、どうぞお気軽にご参加下さい。
毎月2回参っていますが、随所におかげがあるように工夫がなされています。
本殿に近い駐車場までの進入路が狭く,離合できない。
下の駐車場に止めるのがよい。
約15年位前に、婿養子に行った所を追い出されて借金を抱えて三度のご飯も食べられない様な生活をしてた時に良く下の駐車場へ来て居ました😅 昨日、仕事に来て初めて本殿には来ましたけど、塩冶神社がこんなに大きいとは思いませんでした😅 近くまで来られる事があれば、参拝をされて見られたら如何でしょうかねぇ😊
初詣混んでおらずちょうど良い規模でした。
塩冶地域の氏神様になりますね。
境内は綺麗に掃き清められていてすがすがしいです。
神域らしいですよ。
参道が新しい道で横切られていますが長く続いています御朱印をいただけました。
出雲国風土記に「夜牟夜社」とある神社。
延喜式では「鹽沼」と誤記されている。
この誤記は、他の鹽冶関連式内社にも共通している。
当地は、中世に勧請された八幡宮のあった場所。
鹽冶八幡宮は、いわゆる出雲国八社八幡の第一であるという。
その八幡宮に、鹽冶関連式内社が合祀されている。
合祀されている式内社・鹽冶神社は三代実録では「温沼神」とあり、貞観十年九月二十一日(868)に従五位下を叙され、貞観十三年(871)十一月十日、従五位上となっている。
ただし、式内社・鹽冶比古神社以外の鹽冶関連式内社が、八幡宮に合祀されたという記録はないらしい。
なお、社伝によると、当社の創祀年代は不詳。
鹽冶関連式内社が合祀されていた鹽冶神社神社に後一条天皇の御代長元二年三月、時の守護職・塩治頼泰が、八幡大神を勧請して合祀。
正徳三年、松平宣澄公のおり、西250mの地から現在地に遷座し、社殿を一新したという。
塩冶神社(えんやじんじゃ)【比定社】夜牟夜社【祭神】鹽冶毘古命、鹽冶毘賣命、鹽冶毘古麻由彌命、燒太刀天穗日子命 [合祀] 誉田別命、事代主命、大山祇命、塩冶判官高貞【住所】島根県出雲市上塩冶町1749-1稲荷神社あり平成27年10月17日 参拝。
Shintoism temple at En'ya district, Izumo-shi. Original name is written this way: 鹽冶神社, Chinese writing. Nowadays it is 塩冶神社. At new years days you may find it open and also the little shp will be open selling protection amulets.
名前 |
塩冶神社(鹽冶神社) |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0853-25-3846 |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-shimane/jsearch3shimane.php?jinjya=30139 |
評価 |
4.4 |
出雲國風土記「夜牟夜社」、延喜式神門郡「塩冶神社」主祭神:塩冶毘古命、塩冶毘賣命合祀:出雲國風土記「夜牟夜社」、延喜式神門郡「塩冶比古神社」主祭神同名合祀:出雲國風土記「同夜牟夜社」、延喜式神門郡「塩冶比古麻由彌能神社」主祭神同名合祀:出雲國風土記「鹽夜社」、延喜式神門郡「神産魂命子午日命神社」主祭神同名合祀:出雲國風土記「同鹽夜社」、延喜式神門郡「塩冶比古命御子焼太刀天穂日子命神社」主祭神同名上記塩冶系5社の他に、誉田別命と出雲守護塩冶高貞霊位を併せ祀る。
なお、塩冶毘古命は阿遅須枳高日子根命の御子。
今は車道となり舗装されていますが、かつては長い参道で流鏑馬が行われ、馬場の宮とも呼ばれていたそうです。
14世紀の初め頃、塩冶頼泰(高貞の祖父)が八幡宮を勧誘して社殿を造り、そこに合祀されました。
そのまま塩冶八幡宮として勢力を大きくし、地方きっての名社となりました(江戸末期には石高45石)が、明治初期の神社制度改正の折、八幡宮では社格が得られないため、相殿に祀られていた塩冶毘古命を主祭神に据えて式内社として届け出たため、郷社に列せられました。
同じく勢力が大きく42石あった朝山八幡宮ですが、こちらは村社(後に郷社)に列せられています。