少し歩いた場所に石垣が見える場所がある。
こちらは2024年04月02日の訪問となります。
横浜港の防衛の為に開港時、作られたのですがその目的で撃たれた事はなく、外交儀礼のための礼砲・祝砲として発射するために利用されました。
竣工は1860年。
設計は勝海舟、現場の総指揮は中川翔子さんの御先祖さんがされてます。
大正時代以降、周辺が埋め立てられていき今は石垣の一部を残すのみとなっています。
以前、反対側の星野町公園側からは紹介しましたがこちらには説明板もあります。
上から見ると星型の台場だったそうで五稜郭含め国内に三例しかない貴重な形の遺構でしたそうで。
2023年7月23日日曜日訪問しました。
民家の裏を覗く感じで石垣が見れます。
幕末の横浜開港の翌年の1860年に開港場の対岸に有名な品川台場同様、防衛のため勝海舟の設計で造られたといわれていまふ。
羽を広げたコウモリのような形をしている事から「蝙蝠台場」とも呼ばれたそうですが、今は地中に埋まっています。
現在は台場公園として整備され、特に遺構は見られませんが解説板が設置されています。
駐車場はありませんが近くにコインパークがいくつかあります。
裏路地にひっそりたたずむ史跡があります案内図などありませんがマップで直ぐに解ります簡単な説明書きはあり概略は把握出来ましたなかなか…良いものですよ!
JR東神奈川駅から海方面?コットンハーバー方面?の立地ですが、どこにあるのかなかなか迷います。
ただの公園で何があるというわけではありませんが、その昔、黒船来航の日本をここから守っていたかと思うと、一度は訪れておきたい場所です。
台場公園には台場の史跡が無く、少し歩いた場所に石垣が見える場所がある。
石垣は線路・卸売市場の反対側のコットンハーバー内にある星野町公園でも見る事が出来る。
というか星野町公園のほうがちゃんと整備されてるので、そっちもオススメ。
勝海舟が手掛けた台場の史跡。
特に台場の外形が残っているという事ではなく、台場外郭の石垣が部分的に残っている程度。
東京お台場にある第〇台場の史跡を期待していくと肩透かしを食らうかもしれない。
元々はバットマンマークのような形状をした珍しい形状の台場だったようで、実際に当時はコウモリ台場と言われていたらしい。
これは五稜郭と同じような設計思想で、ヨーロッパの城郭をモデルにしたもののようである。
コウモリ台場と呼ばれた神奈川台場は、周辺のマンション再開発で今は大部分は地下に埋もれてしまっているとのこと。
この台場の設計を手掛けた勝海舟は子供時代のトラウマから犬が大の苦手だったそうですね。
ちなみにこの近くに台場らしき石積みの遺構とその碑があります。
台場は1858年に竣工、1898年まで存在したようで、日米修好通商条約締結の時の礼砲などに使われましたが、実戦で砲台が使用されたことはありませんでした。
ただ砲台は、沖ではなく、横浜湊の方角に向けられていたそうで、万が一のためでしょうか、1860年開港後も睨みをきかせていたようです。
またここへ来ると分かるのですが、神奈川宿前の神奈川湊は、小型船が行き交うのに適した遠浅の船溜であり、黒船のような大型の蒸気船が碇泊出来るような港ではありません。
諸外国が結局対岸の深い海底の横浜村を貿易の拠点とせざるを得なかったのは明白ですね。
愛媛藩に命じ制作されたとのこと。
石垣が今でも残ってる。
2020年11月現在、部分工事中ですが、海が見えてベンチもあって、お散歩の休憩に丁度良かったです。
何もないのですが、看板には以下の様に書いてあります。
安政六年(1859)五月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。
当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇型で、七万両の費用と工期約一年を要し、蔓延元年(1860)六月竣工した。
明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみになった。
ペリー来航以降、安政元年(1854)に和親条約、さらに安政五年(1858)には各国と修好条約を締結したことにより日本は横浜、函館、長崎、新潟、神戸を開港することとなりました。
そこで江戸湾内を航行する船舶の監視役として神奈川台場が築造されることとなりました。
担当となった伊予松山藩の松平勝成はさきに築造された品川台場の構造が不十分である風評を受けて、より一層堅固な台場の築造が必要であるとして並木町、及び漁師町沖に2基の台場を築造することを決定し、漁師町沖の台場に関しては勝海舟に一任したのでありました。
神奈川台場の構造は三つの稜堡を海上に鋭角状にもつ半星形状で、陸地とは2本の土橋によって結ばれる縄張りでありました。
またこの土橋は台場と陸地間を囲む舟溜りとしても活用することができる構造でありました。
明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたましたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなっています。
住宅地にある小さな公園。
遊具などはなくベンチと史跡の案内板があるくらい。
ひなたぼっことかには良いかな~☆
幕末に勝海舟によって作られた神奈川台場があった場合です。
当公園には案内板があるのみです。
なにやら 顧問弁護士先生そうとうな 歴史好きそれが高じて 今現在 東海道53次を時間をみつけては 徒歩で 歩いてる今は新居宿あたり らしい。
先日 横浜中央卸売市場あたり(出川哲朗さんの実家?海苔やさんがある所)行った時ぐうぜん 神奈川台場跡の高札 発見!見事に石垣しか残ってない でも此処に 台場なら江戸時代は、ここは海の真っ只中えー ほんとかいな?先生に 勝海舟設計の 御台場跡 知ってますか? 聞いたら 知らないらしい昨日 ドヤ顔で 案内しましたなかなか喜んで貰い 帰りに 土橋寿司奢りラッキー❗次の河岸は マリンロケット 行きます。
幕末期江戸湾防衛の一角。
現在は埋め立てが進んで内陸部となっているが、石垣の一部が残っている。
史跡としてもう少し保存の仕方やアピールの仕方を考えて欲しいです。
150年以上前の石垣が残ってる。
僅かな史跡で、当時の風景をしのぶのも楽しい。
江戸時代末期、東京湾に侵攻してきた船舶に対する防衛施設として、勝海舟の設計で出島状の埋立施設。
埋立には近くの権現山(現幸ケ谷公園)を切土して流用された。
因みに工事総指揮者は平野弥十郎という人物でタレント中川翔子(しょこたん)の先祖。
1860年竣工。
実際に戦いで使用された事はなかった。
現在は周囲埋立が進み、台場としての面影はないが、船溜まりという他の台場には無い施設の跡地が、ここ神奈川台場公園として整備されている。
案内板あり。
名前 |
神奈川台場跡石垣 |
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ジャンル |
|
電話番号 |
045-371-3284 |
住所 |
〒221-0045 神奈川県横浜市神奈川区西神奈川1丁目17−3 |
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
3.4 |
神奈川台場跡地の石碑と石垣が住宅街の一角に突然ある感じです。
見に行く時は周囲のご迷惑にならないように。