住宅街の中にある神社です。
もう20年以上前になりますか...散歩がてらに訪れたことがあります、私には異世界感が感じられてとても趣のある神社だったと記憶しています、人は居なかったような覚えがあります、すぐ裏には新幹線が走っています、当時は目の前のバス通りに和菓子屋さんがありましたね、特に何もないのですがまた訪れてみたい空間(神社)です。
田村の御霊神社。
大きな道路と新幹線の線路に挟まれているが緑が多い。
御朱印はいただけませんが氏子さんとお話をさせていただきました。
住宅街の中にある神社です。
富士山の絶景。
毎年初詣はこちらでお世話になっております。
除夜の鐘をつかせて頂き、みかんや甘酒を頂戴していて、氏子様や地元民にとても愛されている神社だと思います。
我が家の3ブルも境内までお邪魔して毎年一緒にお参りさせて頂いて感謝しかありません。
例大祭でお世話になります!厳粛な神社です。
鐘突堂がありめずらしいです。
名前 |
御霊神社 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0463-55-0670 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
少しまとめてみる。
延暦(782年)以前の旧社であるという。
そのころは国常立命(くにとこたちのみこと)が祀られていたとおもわれる。
神社名も今とは違うと“私は考える”。
1180年辺りに坂上田村麻呂が東征するのだが、其のころ京都御霊神社を勧請して崇道尽敬皇帝を祀り、相殿とした。
という。
この頃御霊神社と称したのではないのかと、“私は考える”。
承久元年(1219年)鎌倉幕府4代目将軍_藤原頼経(よりつね)が鎌倉へ下向の時、当地に逗留し、幣帛を供えたとある。
あづまかがみを見ると、京都から鎌倉へ向かうその一行の記録が残っているわけだが、その中には田村館の主であり、その一行を3日間逗留させた(相模風土記稿)館主の三浦義村(よしむら)の名前もある。
又、同地区のお寺、妙楽寺にのこる、足利満兼(みつかね)の御教書(みぎょうしょ)という古書があるが、その満兼の3男の足利義氏の名もみえる。
(承久の乱で活躍)御成敗式目でゆうめいな北条泰時(やすとき)、島津家の祖、島津忠久(ただひさ)の名もある江戸時代初期に旗本榊原氏が領主となった頃に最も栄え、横内は近郊35ヶ村の指導的地位に立ち、御霊神社は神田地区5ヶ村の總社となったという。
その後、横内だけの鎮守となった、とある。
現在祭神は 大己貴命(おおなむちのみこと・大黒様)とある。
しかし急に大己貴命の神名が出てくることもあり、記載ミスである場合もあると“私は考える”。
祭神をまとめてみる。
782年設立当時は国常立尊(くにのとこたちのみこと)とある。
1180年辺りに坂上田村麻呂が東征時に崇道尽敬皇帝を祀り国常立命と相殿としたとある。
江戸後期の風土記には国常立尊とある。
そして1981年の神奈川神社誌には大己貴命とある。
______________承久元年(1219年)鎌倉幕府4代目将軍_藤原頼経(よりつね)が鎌倉へ下向の時、当地に逗留し、幣帛を供えた。
という。
❷【参考 神奈川県神社誌 1981年】御霊神社延暦(782年)以前の旧社で昔は戸田、吉際、大神、横内、田村の総鎮守であったが、中世以降は横内のみの鎮守となる。
承久元年(1219年)鎌倉幕府4代目将軍_藤原頼経(よりつね)が鎌倉へ下向の時、当地に逗留し、幣帛を供えた。
貞応(1222年)の頃、領主_三浦義村(よしむら)が当地に山荘(さんそう)を経営し時々鎌倉より来往して神仏を崇信して寺社を造営した。
当社もこれに預かる。
徳川将軍の時に至り、榊原(さかきばら)、本田、渡辺、高井、竹尾 (省略)旗本が相次いでこの地を米食しおのおの旧例により造営、寄進、参詣した。
明治6年(1873年) 村社に列する大正6年(1917年) 神饌幣帛料供進神社に指定される[鎮座地] 平塚市田村900[祭神] 大己貴命(おおなむちのみこと・大黒様)[境内社] 八坂神社 金刀比羅神社(少名彦命)天神社[例祭日] 9月20日[境内面積] 470,4坪___________________❶【参考 新編相模風土記 1830年】御霊社横内の鎮守である。
祭神 国常立尊(くにのとこたちのみこと・国の安定を意味する神)幣殿、拝殿、神楽殿等あり。
例祭日8月20日。
智正院持ち。
鐘楼 安永6年の鋳鐘を掛けている。
末社で牛頭天王(ごずてんのうしゃ)疱瘡神。
山王(弁天を相殿に置く。
)弁天。
金比羅。
天神。
稲荷。
_________________❸【参考 平塚の史跡と文化財めぐり 1969年】承久元年(1219年)正月、鎌倉第3将軍 源実朝(さねとも)が没した跡、頼朝の遠縁にあたる左大臣_九條道家(みちいえ)の子_三虎(みとら)が、後継将軍として迎えられることとなる。
三虎は当時2歳。
一行は6月26日に京都を発し、7月15日にここ田村にある三浦義村(よしむら)の山荘に到着し、7月19日に鎌倉入りしたという。
後の鎌倉幕府の第四代将軍の源頼経(よりつね)である。
__________________❹【参考 平塚地誌 1985年】横内の鎮守氏神御霊神社ははじめ、国常立命(くにとこたちのみこと)を祭神にしていたが、坂上田村麻呂が京都御霊神社を勧請して崇道尽敬皇帝を祀り、相殿とした。
この時代に横内は田村から分村したと思われる。
その後、盛衰(せいすい)があって、江戸時代初期旗本榊原氏が領主となった頃に最も栄え、横内は近郊35ヶ村の指導的地位に立ち、御霊神社は神田地区5ヶ村の總社となり、八的は同神社祭のやぶさめの的場たったという。