長男の押坂彦人皇子をもうけていた。
太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵) / / .
分かりにくい場所にある。
拝所までが雰囲気のある厳かな道のりでした。
拝所奥にこんもりと墳丘?が見え、その辺りに埋葬施設があったのかなと想像しました。
被葬者:第30代・敏達天皇/石姫皇女実際の被葬者は明らかにされていませんが、第30代・敏達天皇と石姫皇女(欽明天皇皇后)の陵と伝えられています。
出土された埴輪等より、古墳時代後期前半頃の築造と推定されています。
拝:2020/09/05
王陵の谷の言われるだけあり静かな場所にあり登って行く途中にミカン畑がありました。
🍊☺
太子西山古墳は第30代敏達天皇磯長陵として宮内庁により治定。
母親である石姫皇女との合葬陵ともされています。
因みに妃である推古天皇は息子の竹田皇子と共に東の別の陵に葬られていると。
墳丘113mの前方後円墳であり、磯長谷古墳群(太子町)では唯一且つ最後の前方後円墳です。
主要道路から離れて細く長い道を南に登ると、山の中に現れます。
外観からは前方後円墳とは分かりません。
敏達天皇は最初広姫を皇后に迎え、長男の押坂彦人皇子をもうけていた。
だが後継者を決めないまゝ亡くなってしまった、敏達天皇の殯は5年7か月と長期に渡っている。
後継者選びが難航した証しなのか?御陵の景観としては近くの道路からはすこぶる悪い。
だが参道の長さは結構長く、正面からは天皇陵に相応しい。
推古天皇は磯長山田陵で竹田皇子と眠っているが敏達天皇は母石姫が眠るこの御陵に追葬され、新たな御陵は築造されなかったそうだ。
参道が非常に長いのが印象的。
いのししに注意っていう看板がたってます。
第30代(生没 538年~585年(48歳) 在位 14年間)。
聖徳太子の伯父。
この付近にある他の天皇陵と一緒に回りました。
陵墓だけあって整備されています。
磯長谷の四つの天皇陵、何れも確定ではないという説を何処かで読んだ。
だけれども、そんな事はどうでも良いような気がする。
第30代天皇。
欽明天皇は継体天皇と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)との間の息子であり、石姫皇女は宣化天皇(継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、父方・母方の双方からそれぞれ継体天皇・仁賢天皇・雄略天皇の血を引いている。
世界最古の企業とされる金剛組が敏達天皇6年(578年)に宮大工の集団として発足したと伝わっている。
府道32号線上宮太子校前の交差点(ローソンあり)から南に少しくだり、作業道のような狭い道を西に行く。
ローカルな工場があってそこを越えてすぐのところに参道口あり。
ここまではわかりにくいです。
全長94m、磯長谷古墳群では唯一の前方後円墳で、天皇陵としては最後の前方後円墳。
別名「太子西山古墳」。
敏達天皇とその母を埋葬した合葬陵とされている。
当時、廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子が対立していたが、敏達天皇は廃仏派寄りであった。
第30代 敏達天皇 びだつてんのう公道から行く道が分かりにくく少し迷いました(^^; 駐車場から猪注意の坂道をのぼり林道を抜けると木々に囲まれた参拝場所がありました♪
名前 |
太子西山古墳(敏達天皇河内磯長中尾陵) |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.9 |
宮内庁が比定しているだけであって確証はない場所。