西院河原の人々や頼り来たりし精霊を導き賜る土地柄に...
西院。
本尊は子安地蔵と呼ばれ、安産地蔵として信仰を集めた。
足利義政夫人日野富子もここで祈願し、義尚を生んだ。
また地名の西院が賽の河原の賽に通じるため。
子供を救う地蔵として信仰されている。
浄土宗鎮西派の日照山 高山寺(こうざんじ)になります。
通称名称は賽の河原(さいのかわら)と呼ばれる。
本尊は子安地蔵菩薩(子安地蔵)で足利義政夫人日野富子もここで祈願し、義尚を生んだという。
また地名の西院(さい)が賽の河原の賽に通じるため。
子供を救う地蔵として信仰は厚いお寺になります。
高山寺の山門前には「淳和院跡」の石碑があります。
淳和院は、淳和天皇(786~840)譲位後の離宮で即位前からの御所南池院を改称したものである。
淳和天皇没後は皇后正子内親王(810~79)の御所として仏道修行の場となっていたが焼失した。
後に尼寺となり西院とも称された。
西院の地名の起源でもある。
とてもキレイな寺院ですね!「賽の河原」雰囲気はありません!!
境内はなかなか賑やかな雰囲気。
色んなお地蔵さんや石造物もあって 宝篋印塔もあって 古い ものもずらりと並び、 本堂もなかなか立派。
こういうお寺に来ると何か あったかい気持ちになる。
今日も晴れ。
皆んな今は頑張ろう!
西院(西大路四条)に有るお寺です。
都会の中に有るのに静かで良いお寺です。
大きなお地蔵様が優しいお顔をなさっています。
山の緑がきれいだった。
日照山と号する浄土宗のお寺で 創建、由緒は明らかではありませんが 古くは 高西寺と言っていたようです!室町時代に 洛陽六地蔵巡りの一つであったことは『資益王記』『親長卿記』などの日記により明らかで、今も本堂には 子安地蔵と呼ばれる地蔵尊が安置されているようです。
寺伝によれば この尊像は 近江(今の滋賀県)の堅田にあったものが、足利尊氏の帰依により この地に移されたものといわれ、足利義政の夫人 日野富子はこの尊像に祈って義尚を産んだと伝えられています。
室町時代は地蔵信仰の最も盛んな時代ですが 江戸時代になって『賽(さい)の河原和讃』にしめされている賽の河原が、この西院(さい)の地であると信じられ多くの信仰をあつめました!
改修工事をされてました。
大きなお地蔵さんがあります。
御朱印ありません。
2018年12月22日 訪問。
本堂は改修中でした。
工事の車両が狭い境内に停まっていて、もちろん本堂は足場に囲まれて、もう観られる状態ではありませんでした。
そんなところで、墓地へお供えに向かう住職と遭遇! ご朱印を乞うと 用事を済ませたあと 快く対応してくださいました。
見処は鐘楼に並べられた鬼瓦の数々。
普段屋根の上で下界を睨んでいる鬼の皆さんが、威厳を無くして床に転がっている姿は、なかなか笑えます。
改修中は改修中なりに楽しむことがあるものです。
改修工事中であったが、緑青がかったお地蔵様が味わい深い。
こちらは淳和院という離宮があった場所なので、この辺りは御所の西にある院で西院というそうです。
鬼の話に出てくる賽の河原は、この辺りにあった河原(現在の春日通り)のことだそうで、このお寺には賽の河原という通称があります。
この辺りの地名にもなっているとても由緒ある浄土宗のお寺ですが、本堂の公開はされていないそうです。
境内は開いているので、本堂の外からお参りできます。
淳和(じゅんな)天皇改め、淳和院が退位したのちに隠居したのが、この地にあったというのだそうです。
淳和院の俗称の西院(さいいん)が、この地の名になったのですが、淳和院の邸宅跡は、現在の東淳和院町と西淳和院町に跨がっている規模の広大さだったそうです。
でも、邸宅跡を遺せなかったのは後悔されるべきですね。
友達が住んでいる。
境内は狭いですが立派な仏像があります。
此処は、かつては御土居が築かれて居た所とされて居ますが、此の寺を調査しましたが、それらしき痕跡は見当たりませんね、もしかしたら、大きなお地蔵さんの後ろある、小さな石仏が沢山ありますがそれがそうかな?
此処は、かつては御土居が築かれて居た所とされて居ますが、此の寺を調査しましたが、それらしき痕跡は見当たりませんね、もしかしたら、大きなお地蔵さんの後ろある、小さな石仏が沢山ありますがそれがそうかな?
Sehenswert
オリジナル御朱印帳〒616-8295 京都府京都市右京区梅ケ畑栂尾町8に山寺。
身高3メートルの大きな石造地蔵が素晴らしい。
名前 |
高山寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-311-1848 |
住所 |
|
評価 |
3.8 |
大きな地蔵さまが塀越しに覗き下され世間をば見渡し見守り頂けれ、西院河原の人々や頼り来たりし精霊を導き賜る土地柄に御仏さまに桟下あれ。