多賀国府?多賀城址のことかと思いきやちがうらしい。
へぇーここに国府があったんですか、、、、、と思うのは私だでしょうか。
以下、多賀城市のホームページからの抜粋です。
---------------------------------------------------------------------------奈良・平安時代に陸奥国府が置かれた多賀城は、発掘調査の結果から11世紀前半頃には国府としての主要な役割を終えたと考えられています。
しかし、その後に書かれた中世の記録には、しばしば「多賀国府」という名が登場します。
それでは、中世の「多賀国府」はどこにあったのでしょうか。
現在では、仙台市宮城野区岩切から本市の西部にかけての地域が、その有力候補地に挙げられています。
この地域には、中世の遺跡が密集することが長年の発掘調査から明らかになっています。
また、「奥大道(おくだいどう)」という鎌倉からの幹線道路と、海につながる水上交通の幹線である七北田川が交差する水陸交通の要衝であり、町場や宿場、市場としても発展していたと考えられます。
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名前 |
新田遺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト | |
評価 |
3.0 |
奈良、平安時代に置かれていた「陸奥国府」記録によれば「陸奥国府」詰めの上級武士の住居跡であると言われています。
(代々、この地を治めていた「留守氏」に関わるものとの考察が有力説)周囲に溝を巡らせ、母屋を始め倉庫、井戸の痕跡があり中国、国産の陶磁器も多数発見されています。