引導地蔵菩薩の安置されているお寺です。
三条駅から徒歩5分。
慈舟山とは高瀬川を往来する舟にちなんで名付けられたそうで、この場所は鴨川の中洲、今はこじんまりとしたお寺となっています。
文禄4年(1595)豊臣秀吉の後継者と言われた甥の秀次との仲が嫌悪の関係になる。
秀吉の息子が生まれたからである。
結局、汚名を着せられ高野山で自刃、8月には首をさらされ一族も処刑された。
秀次の墓も有ったが鴨川の氾濫で崩壊。
ここで立ち上がったのが門倉了以、素庵親子だ。
これは丁寧に葬らないとね、作ったのが瑞泉寺、1611年の事である。
という事で、この瑞泉寺には哀れな一族の39霊が祀られている。
哀れな物語故に映画でも良く取り上げられる。
入口には秀次を演じた歴代俳優の写真、境内には秀次の首を納めた石の首びつ、一族の墓や京人形も安置されている。
因みに近江八幡の八幡山の山頂、秀次の菩提寺瑞龍寺がある。
ここでは優秀なお殿様、近江八幡の街作りに貢献している✌️
駐車場から、山門を越えて険しい山道を登り本堂へ。
本堂では、御本尊の弥勒如来を始めとする多くの仏像が出迎えてくれます。
飲食店が立ち並ぶ木屋町通りと三条通りの交差点近くに立つお寺です。
謀反の疑いをかけられて切腹した豊臣秀次公と処刑された一族の菩提を弔うため、角倉了以が建立しました。
こじんまりしていますが、繁華街の喧騒を忘れさせてくれます。
関白であった豊臣秀次とその一族の墓があります。
今でも詳しい経緯はわかりませんが秀吉によって切腹に追い込まれた秀次とその妻子たちが安らかに眠っております。
豊臣秀次とその一族のためのお寺。
秀次と一族の非愛を感じます。
三条大橋から少し入ったところにすぐあります。
豊臣秀吉の不興を買い切腹させられた豊臣秀次一族の菩提を弔うために建てられたお寺です。
幻の”辻が花”の裂(きれ)が残るお寺としても有名です。
辻が花とは、複雑な色柄の染めの技法のことで、メインの絞り染めを引き立たせるため描き絵・摺り箔・刺繍などを併用しながら、複雑な縫い締め搾り・竹皮絞りなど高度な技法を駆使した、桃山時代の華ともいえる絞り染めの最高傑作です。
残された資料がほとんどなく、現在では再現が難しい、というか当時のレベルのものはもうできないといわれています。
江戸時代に入り、段々と友禅染にとって代わられて消滅しました。
こちらのお寺に残るのは、関白秀次の妻妾が生前着ていた小袖の端切れですので、桃山時代でも一流の細工の辻が花染めを所蔵します。
特別公開の時などに拝見できます。
その他、秀次の正室である一の台(秀吉を関白にするため朝廷工作に奔走した公卿、菊亭晴季の姫)の緋の袴も現存します。
秀次と一緒に処刑された妻妾の辞世の句をひとつずつ掛け軸に仕立ててあるのですが、その表装の布部分に遺品の辻が花小袖が使われています。
私が拝見した限り、同じ柄(ひとつの小袖)を数人の掛け軸に使ってありました。
辞世の句を書かれた方の遺品の小袖がその方御本人の軸にそれぞれ対応しているのではなさそうでした。
秀次が過ごした豪華な聚楽第も秀吉に破却されましたので、その際そういった贅沢品もあっさり毀損され棄てられ、数残っていないのだと思います。
当時は三条河原には大きな中洲があり、現在のこのお寺の位置にあたります。
河原町通までが広く鴨川の領域でした。
秀次一族は、女子供39人を含め処刑後、大きく掘られた穴に次々放り込まれ、「畜生塚」という名前を付けられて、その上に秀次の首を石櫃に置き、土を持っただけの粗末な状態のまま、秀吉を憚り弔う人も無く、三条河原に放置されていたそうです。
高瀬川の開墾をした京の豪商角倉了以は、元々秀吉の時代からの豪商で、角倉家の家業はもともと医師でした。
後陽成天皇の脈を取ったりしたセレブ専門の医師で、豊臣家にも親しく出入りし秀次とも昵懇でした。
塚の有様を見て心を痛め、時がたつのを待ち、江戸時代に入ってから、徳川幕府に「豊臣は完全に滅び、もう今更天下を揺るがす恐れも無く、ほとぼりはさめたと思うので、そろそろ気の毒な秀次公の菩提を弔いたい」と自ら申し出、許可を得てこのお寺を建てました。
亡き人々の人数分の立派なお墓が秀次公の墓を取り巻くように建てられています。
処刑当時の張りつめた空気感が残るような墓所です。
人の世のならいとして、みんな権力のあるうちはちやほやへつらってきますが、とっくに儚く滅びた家の、しかも現在の天下人徳川の最大の敵方であった豊臣家、昔の旧主ともいえる一族を波風立たぬタイミングをみて私財で改葬し永代に祀りたい、とはさすが戦国時代を生き抜いた京の豪商、なかなかに大変な男気と度量の持ち主と思います。
ちなみに、家康の命からがらの伊賀越えを支援した茶屋四郎次郎など他の京の二豪商は徳川の恩顧を得て発展しますが、角倉家はその前から既に立派な豪商でした。
その角倉了以御夫婦の像も安置されています。
引導地蔵菩薩の安置されているお寺です。
お寺の資料が数多く展示されています。
夕方は、都心のビルの影に隠れて、とっても幻想的で、不思議な空間になります。
今回は夏に来てみましたが、オフシーズンなのか、工事をされていました。
しかし、設備や、資料の数、本殿のたたずまいと調和の取れた綺麗な施設から察するに、お寺としての信仰は深いと感じられます。
もし、何かの拍子に三条に立ち寄られたのであれば、立ち寄って見るのも良いと思います。
都会の中のどこか都会から隔絶されたこのお寺で、少し心を落ち着かせて見るのも良いと思います。
梅の季節に訪れました。
小さいお寺ですが見どころはいっぱいです。
豊臣秀次のお墓の中ほどの四角い石も見てくださいね。
高野山で切腹し首が三条河原に。
秀次に関わる女子供が斬首され掘った穴に次々彫り込まれ塚が築かれました。
その上にのせられたのが秀次の首をいれていた石櫃です。
祀られている四角い石はその側面ですね。
近世の洛中洛外図には三条大橋の西詰にその塚が描かれています。
阪急烏丸駅から歩いていきました。
京都らしい町並みのなかを抜けていけるので、時間があるときにはお散歩ついでにもオススメです。
このお寺は豊臣秀次とその奥方の皆さんが処刑された場であり、お墓でもあるそうです。
一角に詳細の写真と説明がわかりやすく展示されていて、ついつい浸ってしまいました。
豊臣秀次一族を弔うために建立された菩提寺。
裏側には河原があり刑場跡地としての寺でもある。
偶然通って知りましたが前日に近江八幡を観光もしてますし、なにより真田丸での秀次侯の優しさ。
なにか運命的なものを感じました。
賑やかな木屋町界隈の中、ひっそりとあります。
残酷で狂気をはらんだ豊臣秀吉によって罪のない女性、幼子、そして哀しみの駒姫ら30数名が三条河原で処刑された。
自分の子、秀頼の将来を案じ秀次一族を根絶やしにした。
秀吉の悪魔性を感じられる。
このお寺は観光寺院ではないです。
拝観料も無いです。
ただただ哀しみがそこにあります。
一歩外に出ると人混みなのに、ここは静寂です。
訪れる時は豊臣秀次が罠に嵌められ、追い詰められ一族根絶やしにされた歴史を勉強してから行ったほうがより興味を持たれて良いと思います。
豊臣秀吉の養子(血縁では甥)で後継者として関白になるが、秀吉と淀殿の間に実子が産まれると疎まれ、謀反の疑い(濡れ衣)で切腹を命じられた豊臣秀次と、三条河原で処刑されたその妻妾・女中たち37人を弔うため、江戸時代初期に鴨川の両岸を狭めて新たに造成された土地に建立された寺。
戦国時代が終わったばかりの江戸時代の初期には、こうした戦国乱世の犠牲者の鎮魂のための寺が多数整備された。
この寺は直接に徳川将軍家の建立したものではないが、京都所司代を通じて幕府の援助も受けている。
三条大橋の下にあって荒れ果てていた秀次の首塚と首を納めた石棺がここに移され改葬され(元の暮石にあった「逆心」の文字は丁寧に削り取られた)、その両側に女性達の供養塔が並ぶ。
中には秀次の側室として輿入れした直後にこの事件に遭遇し、秀次に会うこともなく殺された駒姫のものもある。
墓所の脇には非業の死を遂げた秀次たちをあの世に誘い鎮魂する「引導地蔵」が祀られている。
近年、殺された女性達の姿を表しその霊魂を弔う人形が、地蔵の両脇に安置された。
秀次墓所の正面にある本堂は天明の大火後の再建で文化2年(1805年)、本尊は阿弥陀如来。
禅林寺(永観堂)の末寺である。
豊臣秀吉の甥、秀次と一族が無惨に処刑された場所です。
処刑された人達の小さな人形、まつってあります。
中には秀次と対面もせず処刑された若い側室(駒姫)もいます。
女子供も殺してしまうなんてねぇ。
21世紀になっても、そういうことしてしまう人、いますけどね。
何だかねぇ。
ついでに甲斐庄楠音の畜生塚も検索してみましょ。
名前 |
瑞泉寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-221-5741 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.2 |
大河ドラマ『独眼竜政宗』を昔観た時に、秀次と駒姫を含むその一族の悲劇に強い衝撃と秀吉の秀頼可愛さのあまりの強権ぶりに涙せずにはおれませんでした。
もっと多くの歴史ファンに訪れて頂きたいですね😢