復路で高安山頂に寄り道しても10:25発には乗車で...
ケーブル高安山駅を9:38に出て現地を見学し、復路で高安山頂に寄り道しても10:25発には乗車できました。
往復2.5km弱ぐらい。
早歩き気味です。
礎石が規則正しく並んでました。
奈良方面の見渡しがよく、ちょっと休憩するにはちょうどよい場所でしした。
説明板を読むと、古代、このあたりは大和防衛の重要な軍事拠点だったようです。
大規模な山城を行き交う古代人たちを想像してみると、ちょっとロマンを感じさせますね。
以下、八尾市観光データベースより。
「昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。
救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。
この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。
対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。
この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。
高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。
この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。
この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。
この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇~七三〇年代のものと判明した。
3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。
ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。
【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】
守りの城として 造られたというのが よくわかります。
生駒から 金剛山まて 見はらせます。
わりと開けてて、生駒山の方とか見える。
これを調査隊が発見したのですから・・・感動的ですね。
こんなところに山城を作って中国からの軍を迎え撃つなんて、それにしては小規模です。
山には二つの開放ヤンの遺跡があり、兆候があるでしょう。
(原文)在山路中會有指示牌,裡面有兩個開揚的遺跡。
基礎の石が残ってました。
林を抜けると狭いですが、開けた場所に出ます。
ちょっとマニアックな場所です。
名前 |
高安城址倉庫礎石群 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
址です。
あくまでも。
ちょっとした広場。