ある一人の執念がこの大極殿跡を発見した。
当時の日本の宮殿としては、大きなものだったようですね。
ところで、写真では判り難いですが、南へ少し離れた篝火の付近から、この遺跡に向かって北方向を見通すと、道路標示板(裏側が見えている)と、遠くのビルの間に大阪城が見えます。
遺跡と大阪城とモダンなビル。
1300年間の歴史を見通すようで、痛快。
のんびり息抜きポイント。
HKから近いからか、女優もここでよく息抜きしていたって言ってたな。
まあだからといって騒ぐところでもないし。
■難波宮大極殿跡台座は復元されてますが余りにも寂し過ぎる。
奈良にある「平城宮跡歴史公園」の「第一次大極殿院」までとは言わないが、もう少し大阪府(大阪市?)にも頑張っていただければと思います。
ただの広場で構造物はほとんどありません。
散歩するには良いです。
災害時の避難場所としても良いでしょう。
これからも大きな構造物は作らない方がイイと思います。
お散歩で訪れる事があります。
主に夜ですが、広くて静かで空気も綺麗です。
お昼はピクニックするのも楽しそう。
幻と言われていた難波宮が発掘されて跡地を公園として大規模に保存されたことは高く評価できます。
しかし大極殿跡をコンクリートで大きなステージみたいにして展示してあるのは礎石の位置もわかりにくいし、見る人に中国のような石造りの建築物があったかのような誤解を与えるのでない方がいいです。
芝生の敷き詰められた広い公園にある。
大化改新などの舞台になったところ。
大阪城のすぐそばにあって、太極殿跡の石台の向こうに大阪城天守閣やOBPのビル群が見える。
長くその存在がわからなかった。
おおよそこの辺りにあるかと思われたが、戦前は陸軍の施設などもあったり調査も進まず。
ある一人の学者の熱意で、周囲からも白い目で見られつつも調査をした結果見つかったようだ。
この太極殿跡は、後期難波宮の太極殿があったあたりのようだ。
大化の改新後、律令政治の始まり、ある意味に日本史の出発点ですね。
都市を作る、人を統べる、交易をする。
そんなスタート地点だと思うと込み上げるものがありました。
高校日本史で習った上級呪文「なにわのながらのとよさきのみや」の跡地です。
今は公園になっていて子供たちがボールで遊んでいたり小型犬がたくさん散歩していたりと、のどかです。
石造りの大極殿正殿跡は復元されたものだそうです.特に保護されていないので誰でも入ることができ,時候の良いときはお弁当などを食べている人もいます.中世ごろは今よりも大阪湾も近く,淀川の水運もあってこのあたりは古大阪の中心だったのでしょうね.大阪城の一部やNHKあたりも難波宮に含まれていたそうです.そんな場所なのに第二次世界大戦後まで難波の宮がどこにあったか分からなかったとは不思議ですね.陸軍が長く駐屯地として使用していたとか.
難波宮大極殿があったとされる場所。
といっても、どんな感じで立っていたのか、よくわかりません。
当時の風景を実感したい人は、公園の西側にある大阪歴史博物館へどうぞ。
大阪歴史博物館10階には、原寸大に復元した大極殿があります。
以下、大阪歴史博物館Webページより。
「エントランスホールからエレベーターで一気に10階へ。
そこはもう奈良時代の難波宮の大極殿です。
原寸大に復元した空間では、直径70センチもある朱塗りの円柱が立ち並び、官人たちが整列。
大スクリーンでは宮廷の儀式のようすをわかりやすくご紹介します。
想像したこともない古代の世界へタイムスリップしてください。
」
ワンちゃんやチビっこが楽しそうに遊んでいます。
平和な公園です。
難波宮について知るには、近くの大阪歴史博物館に行くことをおすすめします。
建物の窓から難波宮跡と大阪城がよく見えます。
難波宮の大極殿跡、大阪城、大阪ビジネスパークが、一直線に並び、大阪市の古代・近世・現代を一望出来るスポット。
また、生国魂神社のお旅所もここから見える。
都会とは思えないほど静かな場所で、他に類をみない。
難波の高津の宮の所在地には幾つか説があります。
その内の1つで大阪城の南側にある難波宮大極殿跡古事記によると、“オホサザキの命(仁徳天皇)、難波の高津の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
”抜粋:: 稗田の阿禮、太の安萬侶 “古事記: 現代語譯 古事記”。
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645年「乙巳の変」後、孝徳天皇はここ難波長柄豊崎宮に遷都しました。
「大化の改新」とよばれる政治改革はここでの出来事です。
(備考)686年、難波宮焼失726年、難波宮再建着手740年、恭仁京へ遷都744年、難波京へ行幸後に突如遷都745年、紫香楽宮へ遷都745年、平城京に遷都740〜745年の5年間は、彷徨する天皇と言われた聖武帝の本領発揮です。
これだけ無駄な公共投資が続けば、かなり財政難になったのではないでしょうか?そしてこの様なことはたくさんあったと思われます。
譲位した時も周りに相談せず突如出家して皆が慌てたといいます。
756年に橘諸兄が酒の席で聖武帝を批判して、その責任を取って辞任していますが、私は何か分かる様な気もします。
この遺構がなければ都会の広い公園という感じ。
都会の広い空間って感じ。
いい風が吹く。
ある一人の執念がこの大極殿跡を発見した。
それも1961年、昭和36年の事だ。
ついこの間の事ではないか。
このような人がいる限り、日本の歴史は永久に不滅だ。
この基壇跡で、過去と現在は繋がった。
名前 |
難波宮大極殿跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
大阪の起源 難波宮の跡 今整備が進んでいます。
大阪歴史博物館のエレベーターホールからよく見えます。
歴史博物館のこの部分のイベント紹介キャラは、中大兄皇子です。
前期難波宮関連です。
大阪歴史博物館の基礎部分のガラス床にも宮建造物の基礎部分が見れます。