運上屋の請負人は岡田屋でした。
運上屋の請負人は岡田屋でした。
説明板より→この運上屋の創設は明らかではありませんが、おおむね享保年間u003c1716~1735u003eの頃と推定され、幕吏大石逸平の「西蝦夷地場所回浦日記」によると、天明6年u003c1786u003e4月1日オタルナイ運上屋に宿をとったと記されています。
慶応元年u003c1865u003eオタルナイ場所が村並となって場所請負制度とともに運上屋も廃止されました。
以後この建物は本陣とよばれ、穂足内御用所となりましたが、翌慶応2年u003c1866u003e10月火災により焼失しました。
運上屋は始め和人とアイヌ人との交易所として発足しましたが、交易ばかりではなく漁業経営場所内の行政一般も役目として取り扱っていました。
なお、 オタルナイ場所の知行主は松前藩重臣氏家氏で請負人は近江商人恵比寿屋岡田家でありました。
名前 |
オタルナイ運上屋跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.3 |
小樽の人気スポットであるメルヘン交差点の一角にある石碑と説明板です。