茶臼ヶ森は周辺は良好に残っております。
【歴史】城跡の歴史的情報に関しては他の方のとおりです。
【現在】現在朝倉城跡は原っぱとなっており、城跡によく見られる礎石等は見られません。
原っぱの端に「朝倉公園之碑」があります。
碑には「紀元2600年記念」とありますが、これは神武天皇即位紀元のいわゆる皇紀だと考えられ西暦1940年に該当するものと思われます。
また同じ碑に「櫻木四十…」と記載されており、公園の桜の木は1940年に植樹されたものと思われます。
【アクセス】城跡へは、県道386号線沿いのバス停「朝倉神社前」の真後ろの路地(細い方)から登る道と県道38号線沿いのバス停「北城山」の筋向かいの路地から登る2種があります。
なお、前者の路地は現在(2022/03/17現在)道案内の看板が撤去されていますのでご注意ください。
駐車スペースがないため病院駐車場に停めて登城しました。
東側登城口から入るとまず東側曲輪群が目に付きます。
尾根沿い2つ草木が伐採されて、段曲輪、堀切あり、東に高知市街が展望できます。
主郭は本丸を中心に放射状に二の段、三の段と拡がります。
西側のみ石垣のある井戸、堀切を経て詰の段から西へ繋がります。
主郭部の土塁は開墾でほぼ残っていませんが、詰の段北西にありました。
主郭部の北斜面一面に土塁内堀、竪堀があり、詰の段の北は二重の土塁あり、見所となっています。
詰の段南側にも土塁内堀あり石垣が使われていました。
高知県指定史跡朝倉城跡朝倉駅南西の標高約100mの城山が城跡になっています。
城山の主郭には石碑と説明板があり。
西にある金毘羅神社がある茶臼ヶ森までが城域で遺構が広がっています。
所々に丸石の石積みが見られるのはかつて畑として利用されていた当時の名残のようで戦国時代当時のものではありません。
なんといっても土塁や空堀、山腹の竪堀も見事で見所になっています。
登山口から西の金毘羅神社を回って周回するルートで約60分で見学ができます。
【歴史】本山清茂によって築城されました。
長宗我部元親が家督を継ぐと、永禄5年(1562年)朝倉城を攻めて包囲、周辺の豪族が長宗我部方に降った為に永禄6年(1563年)本山氏は朝倉城を焼き払い本山城へと退いた。
【アクセス】朝倉駅の南(城山の東側)県道38号線に登山口の案内があります。
#お城 #城 #城跡 #山城 #城巡り#高知県 #高知市 #朝倉城 #朝倉城跡。
横堀の規模が凄い。
遺構の残りがいい。
コンパクトにしておすすめです。
夜に行くとオバケが見られます。
たけのこ採取しているオジサンがいました▲めちゃくちゃ藪蚊がいるので虫除け必須です運動靴で行った方がいいです。
高知県内最大規模の中世城跡。
城跡しかないけど歴史を感じた。
途中高知市が眺望できる!
石垣、土塁、曲輪、竪堀、井戸、説明板、見所いっぱいで楽しい‼️
中世の遺溝が素晴らしい❗️整備すれば注目される城跡になると思う。
何回も登りました。
桜の木が植えてあり花が咲くと綺麗かな?
特になにもない広っぱです。
夏場など暖かいときはまむしが出ますので、入らない方が良いかと思います。
古くは重松城ともいう。
長岡郡本山城主の本山梅慶は、天文年間土佐中央部に一大勢力を確立し、これを維持するため、軍事的・地理的に重要なこの地に築城して、天文9年(1540)ここに移った。
永禄3年(1560)に始まった長宗我部氏との激突は、数度に及んだが、勝敗は決せず、梅慶の後を継いだ子の茂辰(しげとき)は、不利な形勢と朝倉城死守の困難さを悟り、永禄6年(1563)1月、城を焼いて本城本山に退去し、廃城となった。
詰・西郭を囲むように大きな空堀が二重三重にはしり、竪堀も深く残っている。
県内随一の規模を誇る中世城跡である。
(場内案内板)
本丸周辺は畑と改変されてしまっているが、茶臼ヶ森は周辺は良好に残っております。
本山氏居城。
その後長宗我部の軍門に下る。
名前 |
朝倉城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
関連サイト |
https://www.city.kochi.kochi.jp/soshiki/90/cas-pref-2400400.html |
評価 |
4.2 |
土佐七雄の一つである本山氏の居城。
本山城から朝倉城に移しました。
朝倉駅から歩いて15分ほどで北登山口に到着しました。