名前 |
旧尾崎館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
大井田遠江守経隆の城館・要害は峰の薬師砦と伝わる。
峰の薬師(砦)城登り口には解説板が設置されるが本館跡は北西端に祠が鎮座するのみで何もありません。
下大井川側農道横、後付の虎口から入場可能。
上下大井田川間、尾崎集落に鎮座する瓣財社から北西方向に伸びる尻尾形状の河岸段丘面に築かれ市道西線通り住宅裏手信濃川寄りに市道とほぼ平行に空堀と土塁が存在したが平坦化されたようです。
市道建設の際、発掘調査で中世の遺構、柱穴が確認された。
1333年、経隆は息・経兼・氏経・経世、同族一門と上野国で新田義貞軍と合流、元弘の乱(鎌倉の戦い)に従軍しその後嫡男・経兼とともに史実から現れなくなる。
1321年、国境の信濃国人市河盛房自筆譲状に拠ると経隆・祖父大井田伊賀次郎太郎(氏継)母が志久見郷雪坪を一代限り譲られた。
市河氏との姻戚関係を結んだ大井田氏が越後里見領の棟梁となったと思われる。
鎌倉御家人里見一族の承久の乱などの恩賞として、越後国魚沼郡(信濃川・魚野川合流部以南の信濃川流域)波多岐庄・妻有庄を所領。
鎌倉中後期、本貫の上野国新田庄(田中・鳥山・大島)から各一族がそれぞれの越後所領へ入部、各氏(分家含め)本貫地名や所領地名を姓とした。
現在、各一族の所領として一次資料においては鳥山氏の波多岐庄南部、羽根川〜中津川(今泉・入馬・倉俣・深見)が比定されるのみである。
大井田経隆は妻有庄の経営が安定して波多岐庄の所領に進出したのであろうか。
1336年、建武式目制定から反足利政権勢力となった各氏は所領を没収され史料乏しく詳細はわからない。
後に越後守新田惣領家・鎌倉府執事越後守護上杉憲顕・越後守護代長尾弾正左衛門尉景恒やその各子孫を軸に此地の武家の命運が左右されて行きます。