私個人的には子供の頃良く遊びました。
創建時期は不詳だが、『大和国正税帳』の730年、『新抄格勅符抄』の806年に名前が見えることから、さらに古い創建と考えられている延喜式神名帳の名神大社で旧村社。
少彦名神と額田部氏の祖・天津彦根命を祭神とする忍坂の氏神さまとして、厚い信仰に支えられ、今も忍坂住民が交代で御灯明をあげて、お祀りしている。
本殿は設けられておらず、背後の山(外鎌山の一部にあたる宮山)を御神体とし、拝殿の北側に神が鎮座する「石神さま」を十数個並べた磐座があり、古い信仰の形を今に伝える。
21/03/01、外鎌山を下ってきて、お詣りした。
境内へ入る階段が特徴的です。
私個人的には子供の頃良く遊びました。
母親の生れ育った実家の目の前です。
お社は小さいけど、今は何もございませんが一度行かれる価値は有ります。
10分位歩けば石位寺や御陵さんも有ります。
忍阪の旧道には歴史地区に指定されてます。
地元の神社ですから、満点です‼️
古のこの地を守っておられる氏神様。
ひっそりとした佇まい。
御神体はお山ということで、拝殿からお詣りします。
「おしさかにいますいくねじんじゃ」と読むらしい。
忍坂大中姫命忍坂宮跡とされている。
「おしさかのおおなかつひめ」と読む。
忍坂大中姫は19代允恭天皇(仁徳天皇の第4皇子)の皇后。
雄略天皇の母。
日本書紀によると允恭天皇は彼女の妹で衣通郎姫を寵愛しすぎたため、皇后の嫉妬を理由に衣通郎姫は茅渟宮(ちぬのみや、大阪府泉佐野市)へ移る。
天皇は遊猟にかこつけて郎姫の許に頻繁に行幸を続けたが、皇后に諌められその後の茅渟行幸は稀になったとある。
嫉妬深い忍坂大中姫ではあったが、即位を渋る允恭天皇を一族もろともバックアップしたようで女傑であったのだろう。
名前 |
忍坂坐生根神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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関連サイト |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=33898 |
評価 |
4.4 |
夕方に訪問しました♥️社殿周りを改築中です♥️丁度、区長さん、灯明係の方が来られましたので、由来などをお聞きしました♥️