フラワーセンターの北にあるトンネルを抜けると右手は...
キナバナコスモスを撮りに伺いました。
難攻不落で有名な玉縄城の城主である北条早雲によって築かれた曹洞宗の寺院です。
鎌倉巡りの際、鎌倉駅や北鎌倉駅が拠点となり易いのですが、インバウンド影響を受け過ぎていない落ち着いた雰囲気の中、撮影を楽しめました。
素敵な寺院です。
フラワーセンターの北にあるトンネルを抜けると右手は龍寶寺の境内で長い石垣に沿って行けば山門に着く。
茅葺の山門がなかなかいい。
寺は小田原北条氏の一門・玉縄北条氏の菩提寺として建立された。
西側は玉縄城跡のある丘陵で、寺も当時の城域の一角を占めていただろう。
境内は広大で緑の丘陵を背にして清々しい。
鎌倉市街地の有名な観光寺院にも匹敵するような規模を持つが、さすがにここまで観光目的で来る人は少ない。
境内に玉縄歴史館や重要文化財の石井家住宅(移築)がある。
北条氏の供養塔もあるが近代のもので、戦国時代の墓塔は存在しないようだ。
江戸時代は付近に所領を持っていた新井白石が寺領を寄進したという。
境内には室鳩巣撰文の「朝散大夫新井源公碑銘」があるそうだが、うっかり見落としてしまった。
「朝散大夫」は従五位下の唐での呼称、白石は従五位下筑後守だった。
歴史探訪北条氏由来の寺院です。
かつて北条氏の玉縄城があった場所。
資料館1階 玉縄城のかつての地形と北条氏の城楼跡2階 地域の農民の生活道具がある。
農機具等駐車場アリ トイレ有 御朱印不明古民家かつてのご住職が別の場所にあった豪商の古民家をここに移築したらしい。
ご住職GJ資料館を抜けて行くとある。
土塀と藁葺き屋根がすばらしい。
さらにうす暗い古民家に入ると、曲がりくねったルネサンス調?曲線を描く梁がすばらしい。
コレが日本の美。
職人の技GJ 当時の生活感を十二分に感じさせる古民家。
囲炉裏やかまど、長年の踏みならされた板床が光る。
日本人として懐かしく、そして心の底からジワる感動。
古民家ファンなら一度は訪れるとよい。
資料館、古民家入場料 200円。
2024.4【宗派】曹洞宗入口の茅葺屋根の山門が目を引きます。
ずっと真っすぐ進んでいくと本堂があり、こちらも威風堂々とした姿をしています。
玉縄歴史館と旧石井家住宅(重要文化財)は有料(200円)です。
玉縄城3代城主北条綱成が建てた瑞光院ともいわれる香華院がこの寺のはじまりで、開山は泰絮宗栄と伝えられます。
山号は陽谷山。
1575(天正3)年に玉縄6代城主の北条氏勝が4代城主氏繁を弔うため現在の地に移し、「大応寺」を建立しました。
創建以来、玉縄北条氏の菩提寺として栄え、綱成、氏繁、氏勝の位牌を伝えています。
当時は七堂伽藍といわれる寺院の主な建物が並び、広い寺領を持つ立派な寺だったといわれています。
氏勝は当時、小田原北条方のすぐれた武将で、1590(天正18年)、豊臣秀吉の小田原城攻めのとき、死を覚悟して玉縄城にたてこもり、豊臣方の軍勢と対抗しました。
しかし、徳川家康の命令を受けた大応寺の僧の良達などが氏勝を説得して開城させたといわれています。
良達は他の僧侶との意見の違いから一時寺を出ましたが、その論争が解決した後に再び入山し、のちに氏繁の戒名により寺名を「龍宝寺」と改めました。
鎌倉の観光客が多い喧騒とした感じは無く、大船フラワーセンターから程近くひっそりとした中にあるのがいいですね。
歴史的にも玉縄北条氏の菩提寺との事。
花の綺麗な良い季節に又、訪れたいと思います。
茅葺きの山門をくぐると広い境内には桜🌸といろいろな樹木や草花が咲き誇り、たいへん美しい❣️ 遠くに見える青い銅葺き屋根の大きな本堂は、とても印象的です。
入場してすぐ右に玉縄歴史館があり、その見学は必須です。
大きく立派なお寺です。
黒ネコの御朱印もいただきました。
なかなか立派なお寺である。
資料館などもあり、ゆっくり散策に向いている素晴らしい寺院。
玉縄城散策では必ず寄りたい場所。
一方で第二次世界大戦の戦時中は、非公式な外国人収容所があった場所としても最近は知られ正しい近代史を紐解く上においても重要な歴史的な場所でもある。
手入れが行き届き美しいお寺さんでした。
緑と建物が調和して、どこを見ても美しいところ。
裏山を上がると、移設される前の北条氏の供養墓跡地がある。
ひっそりとしたお寺で境内も綺麗になっているお寺山門から少し歩くと正面に本堂の存在感いい。
立派なお寺さんです お墓の清掃 手入れも大変行き届いてました。
ここのシャクヤクは見事です❗お散歩コースに加えてみたらいかがでしょうか。
なかなか立派なお寺。
しゃくなげ園がきれいでした。
鎌倉エリアの寺院にしては珍しく、数台分の駐車場があります。
玉縄北条氏の菩提寺。
北條綱成が開き、孫の氏勝が改名した。
玉縄の歴史資料館があり、駐車場もあるので、玉縄城周辺を探索する為の拠点になりうるかと。
本堂のすぐ脇には、移設されたた玉縄北条氏の供養塔がある。
ちょこちょこ北条家紋の意匠が散見される。
山門のすぐ横、玉縄城地域の資料館は、地元の人なら一度は訪れたいところです。
北条氏所縁の素晴らしいお寺。
思っていてよりも参道が長く立派なお寺です。
北条ゆかりのお寺でした。
1503年(文亀3年)に北条綱成により創建。
綱成は3代目玉縄城主でした。
隣接する玉縄ふるさと館は、玉縄城に関する資料や地域の旧家に残されていた家具や農具を展示しているので、龍寳寺のお参りとセットでの見学をお薦めします。
現在は本堂の脇にある北条氏の供養墓は、本来は裏山の上にあったものです、幼稚園の裏側から旧岡本神社の参道に通じる山道の途中に確認することができますので、健脚自慢の方は是非ともお参りしていただきたいと思います。
山を背景に本堂、境内がひろく花が絶えないところが美しい。
いつも散歩の途中に一息ついています。
玉縄北条氏ゆかりの龍寶寺には玉縄城の資料館が併設され玉縄城攻城の前に必ず立ち寄るスポットになります。
とても落ち着く場所です。
玉縄三代城主の北条綱成が建立した瑞光院がこの寺のはじまりだそうです。
広大な境内には新井白石の牌や庚申塔、馬頭観音、祠など色々と建っていました。
奥の本堂は非常に美しいです。
戦国時代に玉縄城主・北条綱成が開いたお寺です。
かなり大きく立派なお寺ですが、「鎌倉」という土地柄を考えると、建長寺だ寿福寺だがあるので、寺自体の見応えはちょっと…。
境内に玉縄城の資料館と古民家(拝観料各100円)があり、こちらはおすすめです。
戦国時代の小田原北条家に福島家から婿養子入りした玉縄城主北条綱成公の菩提寺。
山門が文化財指定されている。
玉縄民俗資料館を境内に運営しており、玉縄城と歴代城主に関する常設展示が行われている。
曹洞宗。
造営当初は背後の栄光学園の敷地に存在した。
直、旧境内地及び現在の境内地は、嘗ての玉縄城城砦群の域内に当たる。
北条家全盛期の玉縄城主、北条綱成公は最初は黄備え隊を率い、後に玉縄衆を率いて、上杉謙信や武田信玄を苦戦させ活躍した関東一の武勇を誇る将で、敵将武田信玄から激賞された。
上杉謙信も自分が苦戦した綱成公が武田信玄に敗戦した際は自分の事の様に悔しがった。
秀吉による北条家本家の改易蟄居後、北条綱成公の孫、北条氏勝公の代に徳川家に下り1万石の小録で下総国岩富城に転封されると支援者を失い往時の繁栄を一度失う。
その後、側用人の新井白石により現在地に移転させられ復興された。
江戸時代には朝鮮通信使の江戸までの道中の宿舎にも成った。
※玉縄北条家のその後。
北条氏勝公は子がなく無嗣断絶を恐れ、信頼を置く実弟の北条繁広公を嗣養子に迎えるが、繁広公を煙たく思う重臣の堀内一族の保身の為の画策で繁広公を差し置いて徳川家の親族に成っていた保科家から養子の北条氏重が迎えられた。
北条氏勝公が没すると北条氏重が堀内等の画策で幕府により後継者承認され、これに怒った北条繁広公と忠臣達は幕府に対して談判を行った。
暫くすると北条繁広公は突然死し、これは当時から現代に至るまで堀内一族による暗殺と伝承している。
玉縄北条家を継いだ北条氏重は掛川に三万石で移封されるが結局無嗣断絶により改易。
玉縄北条家の改易後、堀内一族は厚顔無恥にも旧地藤沢に帰り帰農し、忠臣面し玉縄北条家の他の忠臣達の功績をさも自家の手柄の様に喧伝し今に至る。
特に福島家や付家老間宮家の手柄を現在の堀内も自家の手柄と吹聴している。
しかし古文書から、それ等の功績は間宮家を始めそれぞれの手柄と判明している。
静かで落ち着いた雰囲気。
人も少ない。
息子が幼稚園でお世話になりました。
その彼も今年結婚‼️
大船付近ではもしかして一番大きなお寺かも…?大きな谷戸が丸々お寺の敷地になっています。
お寺も古くからの建物で立派だし、幼稚園もあります。
山門からでは全貌が見えません…ここのお寺の寺子屋が引き継がれて、現在の玉縄小学校になった、という話を聞いた事があります(間違っていたらすんまそん…)山門からは静かな道が続きます…
豊臣秀吉軍が本格的に小田原城包囲作戦を展開し始めた頃、本田忠勝に玉縄城攻撃を命じた。
本田忠勝にしても玉縄城は落とせなかった。
困った本田忠勝は、都築弥左衛門(つづきやざえもん)、松下三郎左衛門を使者をたて、北条氏勝に玉縄城下の大応寺(現在の龍宝寺)僧侶・良達を伴って降伏するように勧めた。
玉縄北条氏の菩提寺として栄えた古刹ですから、境内は広く茅葺の山門があり、左側には幼稚園、右側には「玉縄ふるさと館」があり中央に十列の敷石が敷かれ山門からやや右に行きその先は、真っ直ぐ本堂に伸びている。
本堂手前左側に牡丹や菖蒲などの花が植えられています。
また、対面庫裏前庭からはにも牡丹が沢山植えられています。
御朱印を頂きに庫裏に行ったら玄関前に「シラン」の白い花が真っ盛りでした。
名前 |
龍寶寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0467-46-2807 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.1 |
オヤジ駄俳人。
玉縄(たまなわ)城の三代目城主、北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建てた香華院(こうげいん)がこの寺の始まりといわれている。
玉縄北条の菩提寺として栄える。
玉縄城は、北条早雲によって築かれる。
話は違うが、北条早雲が荒廃している鎌倉、八幡宮の再興を誓い「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都になしてこそみめ」と一首奉納し、後北条が鎌倉や八幡宮を再興させた。
へぇ~、鎌倉って、今でもきらびやかだけど、ほっぽらかされて荒廃していた時代があったのね。
鎌倉再興は早雲から。
で、玉縄城。
関東進出の足がかりだったり、武田信玄や上杉謙信が侵攻を諦めさすほどの難攻不落の城だったり、結構重要。
親族(ダヨネ?)北条に治めさせとるからネ。
だけど、血で血を洗う激戦とか、夜な夜な城に早雲の幽霊が「鎌倉再興しろ~」と言って出てくるとか何がしかのインパクトが無いと、人の噂や歴史小説に取り上げられないので、有名になってないな~。
ここに来て初めて知った。
ーーーーここで二句。
のちの世に 寺だけ残る たまなわ城荒れすさむ 鎌倉に花 植えそえてーーーーダメだ。
オヤジの血がうずく。
はちまんぐう 再興最高 さあ行こう。