名前 |
勝軍地蔵堂跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
2.0 |
(※あくまで(元)であり, 現在は地蔵も地蔵堂も撤去され*, 灯籠もなにやらオブジェに置き換えられ, 瓜生山における勝軍地蔵とその信仰について偲ぶものはここにはほぼなにもありません. さらに現地は地蔵堂の付属施設であった建築物を利用した幼稚園となっていますので, 見学を行う際には不審な行動と思われぬ様にくれぐれも注意しましょう)---室町/戦国期, (ここではなく)瓜生山頂の石窟に(石板にレリーフ状に彫られた) 勝軍地蔵が安置され, 武将達からは戦勝の, 修験者からは愛宕神の本地仏として, そして平和な江戸期の民衆からは痘瘡(=天然痘,疱瘡)除けの強い信仰を集めてきたと云う。
(元々勝軍地蔵とは, 集落と外部との境界に祀る塞の神/道祖神とお地蔵さんとが "シャグジ" という音を介したダジャレ? により習合したものと云う(説が有力).なので外部からの悪霊/災厄の類いの侵入を防ぎ, 勝つという意味からの痘瘡除け信仰は非常に強いものがあったと思われる. なんせ当時の死因のtopではなかったかと)しかし301mの山頂は足腰の弱い人たちには微妙にキツい**😵!と云うことで,1762年(頃), 聖護院門跡の忠誉法親王という人物が丸山丘陵(つまりここ) に勝軍地蔵さまを遷されたのだと云う。
(聖護院門主が大峯入り(山岳修行)をする際には, まず瓜生山の勝軍地蔵にて護摩供を修してから出発したと伝わるぐらいなので, 修験道の親玉である聖護院の管理下にあったからその様なことも可能だったのでしょうか?)(*勝軍地蔵自体は京都造形大の南隣にある禅法寺に遷され保管されていると云うことです(非公開))(**ここへ上がってくるのも病人老人等には結構大変だと思いますが)