亀ヶ谷切通し経由徒歩20分。
源頼朝の長女大姫を祀った御堂です。
ここから亀ケ谷坂を登り鎌倉街道まで。
かなりきついです。
源頼朝の娘、大姫を奉るお堂とのことです。
横須賀線をくぐった先にありますが目につくお堂ですね。
源頼朝の長女、大姫の守り本尊があります。
小さな隙間からのぞいてみると、お地蔵様が見えるので、おそらく、これが大姫の守り本尊なのでしょう。
ちなみに、この地蔵の体内には船形の石造りの地蔵尊が納められていて、それが岩船地蔵の名前の由来だそうです。
(岩船地蔵堂は頼朝の次女、三幡の墓ともいわれています)
JR横須賀線路線沿いから阿仏尼墓所過ぎてガードくぐって左側海蔵寺管理下ですが何年か前はトタン屋根でボロボロだったとか木曽義仲の息子で人質だった清水義高の婚約者大姫(源頼朝長女)の持仏を祀った御堂結局義高は討たれ、討手の藤内光澄も梟首、大姫も早逝と救いの無い話ですが鶴岡八幡宮建長寺鎌倉大仏とまた違う方向でそう遠くないですがやや行きにくいのが何ですが。
北鎌倉の建長寺から亀ヶ谷坂切り通しを抜けて海蔵寺へ向かうとJRのガード下をくぐりますが、その手前のT字路に変わった形の建造物があります。
その建物、実は地蔵堂です。
源頼朝の娘の供養堂で、娘が木曽義仲の子供義高に恋したものの父頼朝に討たれ、深い悲しみから娘も20歳でこの世を去ったと言われています。
そんな供養堂ですが、これは帰宅してから知った情報。
散策中に知ってるとまた違った見方やじっくり観てたのかもですが、鎌倉散策では気になったもの後から調べて知る情報もあるあるです。
でも存在感はかなりありました。
年越しにお参りしました。
薬王寺に行く 入口にあります。
真偽は解らないが源頼朝公の御息女、大姫の供養の為に建てられたと伝承する。
源頼朝と北条政子の娘が祀られているそうです。
お堂は閉まっており、お地蔵様は見えない。
住宅街のT字路に突然現れます。
建物の大き目です。
源頼朝と北条政子の娘で20歳でこの世を去った大姫の守本尊を祀る地蔵堂で、木造と石造の地蔵尊が祀られている。
1691年(元禄3年)に木造地蔵尊が安置されたとのこと。
45.岩船地蔵堂アクセス:(1).北鎌倉駅から、亀ヶ谷切通し経由徒歩20分。
(2).鎌倉駅から、徒歩約15分。
扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘である大姫を供養する地蔵堂があり、大姫の守本尊が祀られてます。
大姫は、木曽義仲の嫡男義高と婚約しましたが、後に頼朝と義仲は対立して義仲は討たれ、義高は逃亡を図って頼朝の配下によって処刑されてしまいました。
婚約者だった義高が討たれたことを聞いた大姫は、これ以後心を病んでしまい、20歳で亡くなりました。
守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背(仏像の背後に付く、仏身から放射される光明を象徴的に表す装飾で舟形のもの)で、岩船地蔵の名の由来となっているそうです 1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。
その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれていたという。
その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていたそうです。
最近になって新しい堂に建て替えられ、木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置している。
外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。
岩船地蔵堂は、海蔵寺によって管理されています。
岩船地蔵堂前にある説明板:「亀ヶ谷辻に建つこの堂は、古くから頼朝の娘大姫を、供養する地蔵堂と言い伝えられてきました。
木造地蔵尊の胎内の銘札にも「大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝御息女之守本尊也」との記述があり、続けて元禄三年に堂を再建し、あらたに本像を造立した旨が記されています。
「北条九代記」にも、許嫁との仲を裂かれた姫が傷心のうちに亡くなったこと、哀れな死を悼む北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺送りしたことが記されています。
このたび堂を再建し、本仏石造地蔵尊を堂奥に、今なお、ほのかに虹をさす木造地蔵尊を前立像として安置し、供養いたしました。
心ある方は、どうぞご供養の合掌をなさって、お通り下さい。
」~大姫の遺体が葬られたとされるが、 大姫は勝長寿院のなかに葬られ、 乙姫が、ここに葬られたかも知れない。
~推測 「 頼朝・政子の長女(大姫) と 次女(乙姫) について。
」 源平合戦の真っ最中の寿永二年(1183)三月、頼朝と木曽義仲との間で対立が生じた。
結局は和睦が成立したが、それには条件があった。
義仲の子 清水義高が大姫の婚約者という名目で、事実上頼朝の人質となり、義高は鎌倉の到着した。
そして翌年正月、父義仲は近江国粟津で戦死した。
頼朝が差し遣わした源範頼・義経の両将に打ち取られたのである。
清水義高は、同年四月、鎌倉脱出を図ったが、武蔵国入間河原で追手によつて、わずか十二年の生涯を閉じた。
幼な心に義高を将来の夫と信じ込んでいたのに、父頼朝の命で殺されたのである。
大姫は、気鬱使症になった。
大姫を慰めるために、頼朝は、後鳥羽天皇と大姫との結婚を考えたのだ。
大姫の入内が実現しそうになったが、しかし、建久八年(1197)七月十四日、 当の大姫が、病死したのである。
遺体が葬られたには、亀ヶ谷切通し入口の角の「岩船地蔵堂」であるといる。
(床下には岩石造りで船形光背のある地蔵洞像らしいものあるので、こう呼ばれた。
) しかし、入内を諦めず、次女の乙姫を入内させようと考えた。
乙姫は、女御(中宮の次の位)に任ずるという宣旨が発せられた。
頼朝は乙姫を伴って上洛しようとした。
しかし、この矢先、これを仲介していた京都の公卿 一条高能が急死した。
乙姫の入内は、一年後に延期されたようだ。
ところが翌年正月十三日、頼朝自身が死去した。
しかし,二代将軍 長男の頼家は、やや強引であった。
乙姫の入内運動をなお粘り強く展開した。
そして,頼朝死去から二か月ほどたった頃、乙姫は 上洛することになったらしい。
ところが、またしても、当の乙姫が病気になってしまった。
介護のかいなく、乙姫は没した。
まだ十三歳でしかなかった。
乙姫=(三幡姫)の遺体が、扇ガ谷の「亀ガ谷堂」のかたわらに葬られた。
乙姫の「亀谷堂」こそが、岩船地蔵堂だっかたも知れない。
大姫の墳墓堂は、勝長寿院のなかだったかも知れない。
このあたりをゴジラが通りました。
墓地へ行く途中、帰り途中お参りしております。
亀ケ谷切り通しを歩き銭洗弁天へ向かう途中、見つけました。
道の角に建っており、良い目印になります。
抜け道の目安になるお堂なのね^_^
源頼朝の娘大姫の供養する地蔵堂です。
ほのかに紅さす木像地蔵尊です。
2016/03/03に浄智寺側を参拝後、山ノ内側から亀ガ谷切通を超えて行くと扇ガ谷に行き着く、丁度ここに扇ヶ谷のJR横須賀線ガード近く亀ヶ谷坂の入口に、源頼朝の娘大姫の守本尊を祀る岩船地蔵堂がある。
守本尊とされる石造地蔵尊(岩船地蔵)は、舟形光背をもつもので、岩船地蔵の名の由来となっている。
1691年(元禄3年)に堂が建て替えられたときに木造地蔵尊が安置された。
その胎内の銘札には「源頼朝の息女の守本尊」と書かれているという。
その当時、石造地蔵尊は縁の下に置かれていた。
最近になって新しい堂に建て替えられ、木造地蔵尊を前に、石造地蔵尊をその奥に安置している。
外から拝観できるのは、木造地蔵尊のみで石造地蔵尊を見ることはできない。
岩船地蔵堂は海蔵寺に管理されている。
名前 |
岩船地蔵堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
海蔵寺に向かう道の途中にきれいな御堂があります。
源頼朝、北條政子の息女であった大姫の守り本尊といわれる岩船地蔵尊が祀られています。
木曽義高との仲をさかれ、傷心のうちに亡くなった大姫を弔うために建てられ、海蔵寺が平成14年に再建したとのことです。