かつては大仏殿もあったところ。
ここの鐘楼見たら、大仏さまが残っていたら凄く大きいのだろうって思いしました。
隣の豊国神社も立派で、豊臣秀吉が奈良を意識して建立したのかな、って思ったくらいです。
きっと由緒ある神社⛩️、お寺なのだろうけど、お参りの人はとても少なくて、地元の人達だけなのでしょうね。
わたし達がゆっくりお参りできて、とても良かったです👍️
豊臣家が滅亡するきっかけの梵鐘があるお寺です。
拝観した時はお寺方が居なかった為目の前まで近づく事ができませんでした。
大仏もあったのですが、昭和48年に消失してからは再建されていません。
再建して欲しい仏像の1つです。
大きさは1番の大きさだったそうです。
本当に大きな鐘です。
一見の価値は十分にあります。
どんな音を発するのか興味がありますね。
これだけ大きいものを創り上げ、これを支える建物。
何よりどうやって持ち上げたのか考えると面白いです。
3/12/31 元旦の2分前に順番が回りつかせて頂きました。
こんな有名な梵鐘をつけるなんて光栄です。
猛暑の旧盆中に参拝!大坂の陣を引き起こすきっかけになる釣り鐘、敗者側の鐘のせいか知恩院の鐘に勝るとも劣らない大きさなのに寂しい境内でした。
東山七条一帯は秀吉とゆかりが深い。
秀吉が権威を示すために、東大寺を模して、巨大な大仏、要は奈良の大仏よりも大きな仏像を建立したといわれるこの方広寺。
(大仏は火災で今はもう無いが…)しかし、ここにはなんじゃこれはと大きな声が聞こえる、それだけデカイ、梵鐘がある。
これが豊臣家を滅亡に追いやった「国家安康の鐘」である。
この場面は歴史ドラマに良く出てくる。
成る程、見ると国家安康、君臣豊楽と刻まれており、秀吉の名を続けて書き、自分の名は分けたと家康は怒る。
大した問題じゃ無いのだが、家康の豊臣家の滅亡を狙った、そうなんですよ!鐘を作らせたのも家康、いちゃもんを付けたのも家康、やがて大阪冬の陣のきっかけとなるのである。
おのれ家康め!と言ったかどうかは知らないが悔し涙が見えた場所だった。
どんな音がするのやら、聞いてみたいわ。
冬の特別非公開文化財公開を見に行きました。
写真撮影は断じて禁止です。
方広寺の鐘がすごく大きかったです💦有名な君臣豊楽、国家安康が、白く囲まれていて刻まれていました。
「これがあの有名なやつか!」すごく大きかったです!!!すごく大きかったです!!!(×2)
【京の冬の旅】で中に入ることが出来ました。
現在の【方広寺】は廃仏毀釈によりかなり土地が没収され見所もそんなにありませんが、この地に【奈良の東大寺】よりも大きな【本堂】と【仏像】があったことに驚きました。
今は当時の仏像の一部しか残ってませんが、それでも、かなり大きかったのがわかりました。
他には【大阪の冬の陣】のきっかけとなった【鐘楼】もありました。
ちなみに普段は公開していないこともあり?トイレは近くにないので、京都国立博物館近くの公衆トイレに行かないといけません。
駐車場は隣の【豊国神社】に停めれますが、方広寺に行く際には声をかけて下さいと張り紙がしてありました。
21年1月13日に訪れました。
『方広寺』は豊臣秀吉が創建しました。
秀吉の子・秀頼が亡き父の冥福を祈り、造った梵鐘は、高さ4.2m、外径2.8m、厚さ27cm、重さ82.7tあります。
奈良の東大寺、知恩院とともに日本三釣鐘とされています。
この梵鐘には「国家安康」「君臣豊楽」という銘文が刻まれています。
徳川家康は「国家安康」は家康の文字を二分して呪詛をはかり、「君臣豊楽」は豊臣家が君主で、豊臣家の繁栄を祈願したものだと、言いがかりをつけ激怒しました。
その後も関係は悪化し、大坂冬の陣で豊臣家は滅亡しました。
大坂冬の陣のあと、この鐘は徳川幕府から呪いの鐘とされ地面に置かれ鳴らなくされてしまいました。
明治に17年に鐘楼を建て直されるまで雨ざらしの状態でした。
その時に伏見城の女性の化粧室の天井画が移築されました。
大黒天堂でも花天井画が見られました。
「豊国神社」に隣接していますが、『方広寺』を拝観されている方はほとんどいませんでした。
わたしは天女と花の天井画が見れて大興奮でした。
立派な梵鐘もぜひみていただきたいです。
境内奥が駐車場になっていて、本堂前が車の通り道となっているため、拝観中はお気をつけください。
豊國神社の北隣りに隣接して方広寺があります。
かっての方広寺は東山七条一帯が寺域で、かなりの規模の寺院だったようですが、それを物語るのが遺跡です。
巨石で作られた石垣で、現存する石垣は国立博物館まで続きその広大さがわかります。
大和大路七条(交差点)(国立博物館)角の交番所の名前が大仏前交番で当時の名残りを残しています。
方広寺と言えば、国家安康の釣鐘があまりにも有名で、歴史を変えた要因の釣鐘で知恩院。
東大寺。
と並び三大釣鐘の一つになります。
大仏殿跡地も遺跡として、大仏殿跡緑地として保存されています。
また石川五右衛門の伝説として、方広寺の門前にあった(大仏餅屋)餅屋が五右衛門の隠れ家であったとも言われています。
🦻現在の耳塚の真向かい辺りにあったようです。
五右衛門は、餅屋の裏庭にある土蔵に入り伏見城までの通じる地下路を掘り、伏見城に忍び込んだ、伝説もあるようです。
豊国神社に隣接する豊太閤所縁の寺院です。
豊国神社所蔵の国重文「豊国祭図屏風」には京にあまたある名刹・古刹を圧するほどの大寺として描かれていますが、いまとなっては見る影もありません。
方広寺は豊臣秀吉の発願により造立された当初から受難続きで、地震で大仏が倒壊したり、大仏再建中の失火で大仏殿が焼け落ちたりしています。
豊臣家にとっては金食い虫の貧乏神なだけでなく疫病神でもあって、大仏殿再建を祝して奉納された梵鐘に徳川家康が言いがかりをつけて大阪城を攻囲、結果、豊臣家は滅亡しました。
豊臣秀吉は豊国大明神の神号を奪われて方広寺と一体であった豊国神社は廃絶、方広寺は存続したものの豊臣時代に再建された大仏殿は落雷により焼失、大仏はまたの地震により崩壊、あらためて再建された半身の大仏も昭和の火災で焼失と、まさに踏んだり蹴ったりです。
豊国神社が明治になって再興されたのに対して、方広寺の寺勢は衰えるばかりで現在に至ります。
なんかもう御利益とかまったく期待できない惨状ですが、件の梵鐘は方広寺鐘楼に現存しています。
他に見どころと言うほどのものはにものの、日本史上もっとも有名な梵鐘を拝めるがゆえ★三つの評価です。
猛暑の旧盆中に参拝!大坂の陣を引き起こすきっかけになる釣り鐘、敗者側の鐘のせいか知恩院の鐘に勝るとも劣らない大きさなのに寂しい境内でした。
方広寺:星⭐️⭐️⭐️⭐️4:概略:天台宗の別院であり、豊臣秀吉が創建した。
元々は大仏殿をもつ大きなお寺であり、大仏は東大寺の大仏よりも大きく、大仏殿は90m✖️55mにも及んだ。
豊臣滅亡のきっかけとなり教科書にも載っている「国家安康」の文字が刻まれた大きな鐘が現在の寺の大きさに似つかわしく無く置かれている。
感想:お寺の鐘としてはとても大きくびっくり30年ぶりにたまたま来ましたが、豊国神社の横にあって気づきませんでした(笑)京都の位置関係はかなり覚えたのでこれからは間違わないようにしないといけないな。
方広寺令和元年 7月29日 京都初夏の旅豊国神社の真横にある方広寺さんです(^^)通称は、大仏または大仏殿と言うそうです❗️秀吉公が発願された盧遮那仏を祀るために創建されました♩今現在は、台座の一部しか現存していないようです。
そして、御朱印を拝受しているときに梵鐘の説明や解説をしてくれました♩
豊臣秀吉が、戦火をつけた奈良の大仏以上の大きさの大仏を京都に作るために建立したお寺です。
大仏は19mあったといわれています。
ただし、地震や火災によって現在仏像はありませんが、豊国神社や国立博物館にある巨大な石垣が大仏殿の石垣だったということで、その巨大さがよくわかります。
それ以上に、このお寺は豊臣家滅亡を招く梵鐘の「国家安康」の銘文の方が有名です。
梵鐘に白い枠で囲っているのでよくわかります。
この梵鐘は大坂の陣の後もそのままで、知恩院、東大寺とともに三大名鐘の一つです。
鐘銘事件(徳川が鐘にいちゃもんをつけた話)で有名な寺。
何故か観光客は少なくのんびりと楽しめる。
鐘は今でも残されており事件の原因となった文字は白い線で囲っているので見つけるのも容易。
有名な釣り鐘があります。
また、敷地の東側徒歩数分には「京都大仏」のあった跡地(今は公園のような空き地とそのことを示す立て看板以外はありません)が見れます。
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として木食応其によって創建された。
秀吉の死後梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の陣による豊臣家滅亡を招いたとされた方広寺鐘銘事件で有名。
大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7トンである。
前述の銘は撞座の左上にある。
大阪の陣の発端になった、鐘が残るのみです。
この鐘の中に淀殿の姿が浮かんで見えるという箇所がありますが、どうでしょう。
普段は駐車場のように車が停まっていて、大仏殿の面影はありません。
南隣の豊国神社の国宝唐門を拝見のために来ていたのですが 境内から大きな鐘楼が見え ただモノでは無いゾォ❗と思い見に行く事に そして直ぐにソノ場で ネット調査をする事にすると「国家安康」「君臣豊楽」のアノ鐘で 日本で一番デカイ鐘である事を知りましたさて方広寺の創建は1595年の安土桃山時代の後期で 御本尊は盧舎那仏です開基は豊臣秀吉と 古渓宗陳(コケイソウチン 臨済宗)と言う僧侶で 面白い名前の方ですまた文化財には 前記の梵鐘が国重要文化財で奈良東大寺が焼き討ちで消失し 秀吉が東大寺金堂(大仏殿) 盧舎那仏(大仏様)を凌ぐモノを造った遺構として 大仏殿跡及び石塁石塔が国の史跡になっています嘗ては超広大な境内を保有した方広寺ですが 日本一大きな鐘として また豊臣家の滅亡に追いやった 家康因縁の鐘とし 更には 隆盛期の各所に点在する遺構等今尚 私達の記憶に留めなくてはイケないスゴイお寺なんだと 偶然に見つけたコトを今日はラッキーだったと思いました❗
私はとても好きになります!何故ならとても綺麗な神社だからです。
日本の京都にもう一度いきたいです。
I suha katai tsukue ha oishi.
2016/8/15拝受 屋根の傾斜が美しい。
1586年(天正14)秀吉により建立され、さらに奈良・東大寺にならって大仏殿も作られたが残念ながら今は見ることができない。
2000年の調査によって東大寺のものより大きかったことが分かったとのこと。
今、その跡地は公園になって行政により管理されています。
法広寺の御朱印を頂きました。
有難う御座います!
随分昔に成りますが、この方広寺には昔、鐘撞き婆さんいて良く話を聞かせてくれました。
何故心易いかは、この方広寺の前に私の彼女が居ました、のでここに良く来ましたよ。
またこの鐘が好きで良く撞かせて貰いました。
ここ程、秀吉の痕跡が深く残る場所も無いでしょうね。
YOUTUBEで動画の配信をしています、是非【サントん暮らし】で検索を!
名前 |
方広寺 |
---|---|
ジャンル |
/ |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
こちらには駐車場はないで、方広寺には車で侵入しないように…お気をつけください。
豊国神社の境内の無料駐車場に停めました。
20台くらいは停めれそう。
神社と方広寺は繋がっている?ので、駐車場から鐘楼まで徒歩1分ないです。
鐘楼は徳川家康と豊臣秀吉の火種になった国家安康の文字がある、あの有名な鐘です。
肉眼でやっと読める文字だが、テレビやドラマで、幾度となく映ってた本物の鐘楼が見れて感動、嬉しかった。
文字は肉眼でも読めるが、本当に文字は小さい。
家康はよくこんなたくさんの文字からさがしたなぁ。
💦鐘の大きさに驚きました。
また、天井の絵も当時のものらしく、素晴らしい芸術品でした。
所要時間 5分くらい。