現在は住宅街の中の公園となっています。
真田戦記二連木城愛知県豊橋市仁連木町二連木城は今は住宅街の中にあり、かっては仁連木城ともいい築城したのは明応2年(1493年)で戸田宗光と言われています。
1571年(元亀2年)に武田信玄と徳川家康の間で行なわれた「二連木城の戦い」の舞台となった城です。
東三河勢の多くは降伏する者まで現れるようになります。
武田軍は南進を止めず、豊橋の吉田城まで攻囲しました。
城は落城。
城兵などは吉田城に退散しました。
信玄は吉田城攻略も目論見ましたが、吉田城は堅城で長期化が予測され留守中に織田信長や北条氏政が武田領に攻め入ってくる恐れがあるので吉田城攻めを中止し、武田の軍勢は甲斐へ撤退していきました。
その後、池田輝政領主時代に城は廃城になります。
⭐️豊橋市仁連木町の住宅街の中に残った平山城址、今は「大口公園」として城跡を保っています🤔※なぜ公園名に「大口」とは?初代豊橋市長の方の名字何ですね、少し納得⁉️公園内が周辺より高台、頂部に「二連木城址」の石碑、公園部は本丸跡の郭、土塁跡が遺構として残ってます、昔は北側直下が朝倉川河岸、公園南側入口の案内板は凄く参考になりました‼️⭐️渥美統一を目指した田原城/戸田氏の渥美北部の拠点として、朝倉川南岸の丘陵に1493年に築城🐎1505年に西方約1.5㎞に牧野古白が今橋城(吉田城)を築城、支配権を巡り戸田氏vs牧野氏の熾烈な激突、更に東三河の支配権は西三河の松平氏に駿河の今川義元が加わり抗争激化、今川氏は桶狭間の戦い敗北後に衰退、徳川家康の支配下に❗️1590年に家康が関東に移封し二連木城の戸田康長も転封🚶⭐️東三河は豊臣秀吉配下/池田照政(後に姫路城主/池田輝政と改名)が入封統治し吉田城を本拠地に二連木城は廃城、1590年頃に廃城に成ったのに、開発破壊されず良く残ってますね🤔★駐車場は無いです、周辺にコインパーキングも見当たらず、公園の周辺は住宅街で一方通行が多く進入路に注意⚠️
静かな雰囲気の住宅街の中の史跡利用の公園。
周りは一方通行で駐車場なし。
築城は戸田宗光。
現在は主郭と2郭が大口公園となっており土塁や空堀が残ります。
城跡と分かる物は少ないです。
すっかり公園化されて歩きやすいけど一部の土塁しか有りませんでした😰
現在は住宅街の中の公園となっています。
そのいたるところに、中世の城の面影が残っています。
●土塁は確認可能。
築城は明応2年(1493年)。
天正18年(1590年)に廃城。
渥美半島の覇者、戸田氏によって築城されてから、東三河に打ち込まれたくさびの城。
松平氏、今川氏などが台頭する中で本城である田原城と連携し、機能した歴史を持つ。
今も城の北側に流れる朝倉川を堀として縄張りされた平山城。
今となっては、台地部分に土塁をわずかに残すのみ。
逆に言えば、廃城後400年以上経過したにも関わらず、まだ残っていること自体、奇跡なのかもしれない。
この城から西へ2kmで吉田城。
豊橋の戦国絵巻を堪能できる場所といえる。
公園はかつての本丸。
老人福祉センターのあるところはかつて二の丸だったようです。
わずかに土塁や空堀の跡と思われるものが残っています。
公園の北側は崖というか大きな段差になっています。
こういうところは城跡っぽいですね。
現在は公園ですが、往時を偲ぶ堀の痕跡がはっきり残っている城です。
目と鼻の先にある吉田城の支城として性格を感じます。
桶狭間以降、この地のしはいを巡る今川、徳川の最前線の城でもありました。
名前 |
二連木城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
明応二年(1492年)田原城主戸田宗光によって築かれました。
天正十八年(1590年)戸田康長は徳川家康の関東移封に従って関東に移ったため、廃城となりました。
(現地案内板より)現在は大口公園となっており土塁は確認できましたがその他は石碑のみがあります。