名前 |
平康頼之塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
鹿ケ谷の謀議に加わった後白河法皇の近臣、平康頼は俊寛、藤原成経とともに薩摩半島の南の端、鬼界ヶ島へ流された人物。
熊野権現を篤く信仰していた彼は、島内に熊野の地形に似たところを見つけ、そこを熊野三山に見立てて、千本の卒堵婆を作り、和歌を詠む。
「私がまだ生きていることを親に知らせておくれよ…」と、潮風に思い寄せ、海に流すとその1本が厳島神社に流れ着き、それを康頼の行方を尋ねてこの社に来ていた僧が偶然にも見つけ、僧は早速都に戻り、紫野(大徳寺付近)に住む老母のもとに、この卒塔婆を届けたことから、都中の大評判となり、平清盛は、娘の高倉天皇中宮徳子の懐妊を機に康頼と成経を赦免した。
が、紫野に隠棲中の老母を訪ねるも、すでに遅し…亡くなっていたという「平家物語」の、なんとも儚い話がある。
そんな平康頼のために建てられた供養塔だろうか…今は素通りされるほどの、ひっそりとした塔だが、静かに参拝客を見守っている”姿”は、母への思いと重なって見える。