石田三成公一族の菩提所。
京の冬の旅非公開文化財特別拝観で訪れました。
石田三成一族の菩提寺である壽聖院は大一大万大吉を旗印に掲げた戦国武将です。
肖像画やお庭を拝観でき、当時の歴史の舞台を偲ぶ事ができます。
通常は非公開なのですが、現在(令和5年1月1日)特別公開されていたので伺いました新しく襖絵が出来上がり、そのお披露目という意味合いのようでした襖絵が全部見れるのは、1月6日までとなるようですというのも、7日からは「京の冬の旅」(3月19日まで)として公開されるので見れなくなる襖絵もあるということでしたただ冬の旅の時期だと、その時に展示される三成関係(石田三成一族菩提寺)のものや、一族の供養塔も参ることが出来るようでしたが、6日までは供養塔も見れませんでした庭園は伝狩野永徳の庭園ということです中は撮影禁止(おそらく冬の旅でも)でしたが、庭園はOKでした襖絵はポツポツと動物が描かれたものから、ダイナミックなものまで結構な枚数がありました(面で言うと14面くらい)御朱印も絵入りのものが4種類(書置き・各500円)御朱印帳(1500円+通常印分300円の1800円)も襖絵の柄のオリジナルのものがありました。
令和5年1月、京の冬の旅で拝観しました。
寿聖院は石田三成が父の正継の菩提寺として慶長4年(1599)に創建したそうです。
しかし、翌年の関ヶ原の合戦の後、一度解体されてしまったそうです。
その後寛永8年(1631)龍安寺の末寺の材を集めて再建されたということです。
セミナーにてお伺いさせていただきました。
綺麗で落ち着く景色のもと、住職様のお人柄も素敵で、とても有意義な時間を過ごさせていただきました。
石田三成の墓所。
本堂建替も終わり、庭や墓地も整備されました。
息子夫婦が結婚式を挙げさせて頂きました。
お寺史上初のことだそうです。
お坊さんも感激され感動しました。
石田三成の墓所。
石田三成の墓がある。
本堂建て替え中。
谷崎潤一郎の作品「聞書抄」によると (渡辺世祐博士の 「稿本石田三成 」に依ってそれらの異説を列挙すると 、隼人正(石田三成の長男)は関ヶ原合戦の当時佐和山にいたのではなく 、毛利輝元 、増田長盛 、長束正家等の嫡子と共に人質として大坂城内にいたのであるが 、一説には 、九月十九日の夜 、乳母や津山甚内と云う武士に扶けられて大坂を逃れ 、京都に来て妙心寺の寿聖院に入ったので 、寺からその旨を所司代奥平信昌に届け出たところ 、やがて家康から助命の沙汰が下った 。
依って剃髪して宗享と号し 、後には寿聖院第三世の大禅師となり 、貞享三年閏三月八日を以て寂したと云う。
とあります。
長さよ(原文)길이 좋음
石田三成公一族の菩提所。
慶長4年〔1599年〕に三成公が父親《正継公》の菩提寺として、当時学徳高き 伯蒲禅師を院主に迎え創建した。
創建当時は、現在の敷地の 4倍が有り、周囲には掘り等をめぐらし、本堂は壮大を究めました。
客殿の軒先は金箔瓦、石田家京都屋敷の観を呈するものであったと伝えられています。
しかし、慶長5年〔1600年〕関ヶ原合戦後、院も縮小され 、境内は元の 4分の1の大きさになりました。
当時の書院は現在、本堂として利用、往昔の面影を残しています。
本堂の前に広がる庭園は絵師 狩野永徳が設計したもので、その景観は桃山時代より変わっていません。
庭園に有る瓢箪池は、三成公の指示により、主君の豊臣秀吉公の戦勝の瓢箪印をモチーフに造られています。
三成公の長男である《重家》は寿聖院の開山である伯蒲禅師に弟子入りし、出家しました。
寿聖院の三世の住職となって、104歳迄生きたと言われています。
《若くしてこの世を去った、父親の三成公の分まで生きた事でしょう。
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石田三成のお墓があります。
石田三成一族の菩提寺。
名前 |
壽聖院 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-462-3905 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.4 |
京都冬の旅にて石田三成一族所縁のお寺です。
石田家に関する貴重な品(複製もあり)や、おしゃれな障子を学生ガイドの方が紹介してくれます。