古墳公園かと思ったが、普通の墓石。
古墳公園かと思ったが、普通の墓石。
屋根の中には日韓交流だけじゃなく、中国の写真もなぜか貼ってある。
遊具はないがベンチはある。
丘陵の中腹にあたる場所に公園のように区画されています。
その敷地に「王仁之墓」があります。
立派な門が韓国・日本のライオンズクラブによって建てられ、恰も「孔子廟」のような構えでした。
同じ区画には、円墳と思われるマウンドがあって、そこには、「王仁之墳」の石碑も見られました。
王仁博士は、東文氏(かわちのふひと)の祖と言われる人物。
「難波津の歌」を詠んだと言われる。
「奈迩波ツ尓佐久夜己能波奈布由己母理伊麻波波流倍等佐久夜己乃波奈」(なにはつにさくやこのはなふゆこもりいまははるへとさくやこのはな)の万葉仮名での手習いの木簡の発見で知られる。
※「難波津に 咲くや木(こ)の花 冬籠り 今は春べと 咲くや木(こ)の花」(木の花は「梅の花」の、冬籠りは「春」の枕詞。
)百人一首の競技かるたの序歌として詠まれることでも知られる。
また、大阪市の浪速区、此花区はこの歌よりとられたもの。
住宅街に有って周辺に車が停められる場所はありません。
少し離れていますが、車で来るなら王仁公園の駐車場を利用して徒歩で移動した方がよさそうです。
場所はわかりづらいが行く価値あり。
色彩がきれい。
トイレもある。
コンパクトでエエんやが… 探しにくい!
スポンサーがつきているせいか、かなりド派手な外観です。
新宮の「徐福の墓」と双璧です。
ただこちらは「伝」がついています。
歴史的な背景背景はおいといて、古代のロマンとして、良かったな🎵心のなかの漢字の故郷⁉️
その昔百済から来た王仁博士?を祀るお墓。
お墓と休憩所、百済風?の門があり、毎年記念日には祭り?式典?が行われ、観光バスで韓国?朝鮮の人々も訪れているようです。
住宅街の中のひっそりと落ち着いた所です。
日韓交流の歴史を知る貴重な史跡。
維持保存がこれからの課題か。
百済から千字文と論語を日本に伝えたと言われる王仁の墓。
入り口付近の門は極彩色で綺麗。
すごく小さい場所だけどよくイベントを行っているみたいです。
トイレの外観もどことなく朝鮮式?百済式?みたいな形になっています。
中は普通のトイレで普通の綺麗さという感じです。
王仁博士が論語十巻と千字文を持って来たと言われる頃、日本という名前はまだ無く海外からは倭国、倭人と呼ばれていました。
その頃文字を読み書き出来たのは大陸や朝鮮半島から渡来して来た人達だけ。
遠く百済から今でいう東大の教授みたいな人が、何故倭国に文字を教えに来たのでしょうか。
四世紀末から五世紀にかけて朝鮮三国では高句麗が圧倒的な強国で、百済、新羅を圧迫し南へ追いやっていました。
百済に至っては首都(今のソウル)を奪われほとんど消滅しかけていたと言ってもよいでしょう。
そこで百済は倭国に多く(物、技術、文化など)を与え見返りに兵を求めたのです。
倭国はそれに応え、この関係は百済が滅びる七世紀後半まで続きます。
百済から渡来して来た人々は王仁博士を筆頭に、倭国が日本に変わるための先生だったのです。
西郷どんが島の子供達を集めて文字を教えたように、王仁博士は倭国の役人に教えたのでしょうか?そんな王仁博士のお墓が枚方にあるのです。
枚方市民の皆さん機会があればぜひ一度行ってみてください。
4世紀末に朝鮮半島から日本に漢字と儒教を伝えたという王仁(わに)の墓とされています。
禁野村和田寺の僧・道俊が『王仁墳廟来朝記』の中で、藤坂村の鬼墓は王仁墓のなまったものと主張し、京都の儒者・並河誠所がこの書物をもとに王仁博士の墓として崇拝するよう地元の領主に進言し、享保16(1731)年に「博士王仁之墓」と刻んだ墓石を建てたことが始まりで、昭和13年に大阪府の史跡に指定されました。
市は、王仁博士の生誕地とされる韓国霊岩郡と20年以上にわたって市民レベルで交流。
地元の市民グループが中心となって王仁塚周辺の清掃やお祭りの開催、交流に力を入れてきたほか、地元の菅原東小学校では霊岩郡の初等学校と壁新聞の交換を行ってきました。
こうした取り組みが実を結び、平成20年には市と霊岩郡との友好都市提携が実現。
歴史文化を中心に交流を深めています。
現在、韓国からは修学旅行生が訪れるなど、伝王仁墓は日韓交流の拠点の一つとして位置付けられています。
③.近代に入り大阪府は、「伝王仁墓」として史跡に指定。
・明治13年(1879)、「伝王仁墓」として大阪府の顕彰史跡に指定。
・明治23年(1889)、招堤村の家村孫右衛門が「有栖川宮」ぼ筆になる「博士王仁墓」の石碑を建立。
・平成5年(2003)、「伝王仁墓」として大阪府指定文化財(史跡)に指定。
④.平成4年(1992)、善隣友好館を建立。
⑤.平成11年(1999)、韓国首相の金鐘泌氏が来日植樹。
⑥.平成18年(2006)、日韓友好団体などの寄付で百済門を建立。
千字文と論語を伝えたとされる『古事記』や『日本書紀』に記述される伝承上の人物、王仁博士の墓とされており、「でんわにはか」と読みます。
墓というより記念碑としての意味合いが強いものです。
応神天皇の詔勅により日本に渡ってきたそうです。
※その時代よりはるか昔から大陸との交流はあり、漢字が使われていたはずなので、王仁が漢字を日本に伝えたという伝説は信じがたが、記紀に記されているものなので、そのように信じましょう。
江戸時代中期の京都の儒学者であった並川誠所が、享保16年(1731)に枚方市禁野本町の和田寺の記録から、王仁の墓が藤阪御墓谷にあることを知り、この地を調査して現在の自然石の立石を発見し、これを王仁博士の墓としました。
墓の前にある丸い石が当時村人から祀られていた自然石です。
「百済門」は(社)韓日文化親善協会、日韓文化親善協会が寄贈したもので、毎年、「むくげ祭り」「博士王仁まつり」が開催されます。
韓国の全羅南道霊岩郡に王仁の生誕地とされる場所がありますが、朝鮮半島の古い書物には王仁の記述が一切なく、王仁は中国から百済にやって来たのではないかと言う説が有力視されています。
現在、枚方市と全羅南道霊岩郡は友好都市提携をしております。
名前 |
伝 王仁墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
072-858-3000 |
住所 |
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評価 |
3.4 |
色合いが綺麗でした。