壽福寺へ向かう途中で、こちらの神社に気が付きました...
鎌倉駅から今小路を通って、壽福寺へ向かう途中で、こちらの神社に気が付きました。
折角なのでお参りしたのですが、あとで境内の由緒書に、歴史の教科書に載っているような、そうそうたる武将の名が書かれていたので驚きました。
境内の由緒書によれば(日焼けして読みにくいですが)、「御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で延暦20年坂上田村麻呂東夷鎮撫の際、葛原岡(源氏山)に勧請したと伝えられる。
永承4年に源頼義が社殿を改築す。
その後、現在の地に遷座された。
古くは壽福寺の鎮守神として崇敬され、その位置が壽福寺の巽の方に当るので巽荒神と称された。
天正19年に社領1貫文を賜った。
近世に至って浄光明寺の持ちとなり、明治6年に村社に列格された」とのことです。
二人とも源頼朝が、鎌倉に幕府開く前の平安時代の武将ですが、もう、この頃から鎌倉は東国支配の重要な拠点になっていたのですね。
ここは、観光客も訪れることも少なく、かつて東国で戦があったなんで嘘のような静けさです。
当時の様子を知っているのは、お社の軒下の勇ましい龍の彫刻だけでしょうか。
御祭神奥津日子神 ( おきつひこのかみ )竈の神 防火奥津日女神 ( おきつひめのかみ )竈の神 防火火産霊神 ( ほむすびのかみ )火の神 鎮火・防火。
すごくマイナーな神社でこれまで何度もお参りしてますが、境内で観光客を見かけたことは一度もありません。
社殿の周りには雑草も生えています。
平安時代初期に坂上田村麻呂が創建し、源頼朝の先祖頼義が社殿を改築したという伝承が正しければ、幕府創業以前に鎌倉にあったわけです。
もとは葛原岡(今は源氏山といった方が分かりやすい)に鎮座していたものを寿福寺の巽(南東)の方角の守り神として現在地に遷されたということです。
地元のかたが、さりげなく神社に一礼して前を通って行かれました。
お参りさせていただきました。
801年坂上田村麻呂が勧請。
1049年に源頼義が現在地に改築したと伝わっている。
本殿前の左右にあった大木は伐られてしまっていた。
社殿の彫刻は見応えがある。
鎌倉駅西口、線路沿いに北鎌倉方面に進むとひっそりとある神社。
歴史は古く801年創建征夷大将軍で蝦夷征伐に向かう坂上田村麻呂が葛原ケ岡に勧請したのが始まり。
境内には諏訪社や石灯籠あり。
鎌倉の神社でも幕府開府以前からある古社。
寿福寺の東南(巽)に位置することからの命名。
背景は全く把握していないが、本殿は文字通りがらんどうで何も祀られておらず、賽銭箱すらないのは逆に恐ろしい妄想をしてしまう。
なにか、閉じ込めているのではないかと…
たつみ神社!割りと広めな敷地にある静かな神社でした。
24.巽神社見どころ(神社の雰囲気.境内の全体.史跡.四季.拝観注意事項 等):ポイント(拝殿・本殿 等):坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社です。
・この地味な神社には、平安の武の象徴的存在である二人の大将軍(坂上田村麻呂、源頼義)が深く関わっています。
・鎌倉が古より東国支配の拠点であったことを改めて認識させてくれます。
由来 (歴史・特徴 等):社号 巽神社祭神 奥津日女命(おきつひめのかみ)・奥津日子命(おきつひこのかみ)・火産霊命(ほむすびのかみ)創 建 801年(延暦20年)平安初期境内社 諏訪社祭日 例祭日11月28日境内掲示による巽神社の由緒・御祭神は竈の神、火の神として霊験あらたかな神で801年 (延暦20年) 坂上田村麻呂東夷鎮換の際、葛原岡に勧請したと伝えられる。
・1048年(永承4年) に源頼義が社殿を改築す。
その後(年代不詳)現在の地に遷座された。
・古くは壽福寺の鎮守神として崇敬され、その位置が壽福寺の巽(東南)の方に当るので巽荒神、荒神社、あるいは巽荒神と呼ばれた。
・1591年(天正19年) に社領1貫文を賜った。
・近世に至って浄光明寺の持ちとなり、明治6年に村社に列格された。
(境内掲示より)アクセス:鎌倉駅西口より市役所前交差点を右折して北に向かい、道なりに進むと右側にあります。
徒歩10分。
また、寿福寺は巽神社より五分ほど先の位置にあります。
征夷大将軍であった坂上田村麻呂、源氏の先祖にあたる源頼義にゆかりがある神社。
寿福寺の鎮守神として、巽の方向にあることから巽神社と名付けられた。
特に見所がないため観光客にスルーされる場所。
801年、坂上田村麻呂は征夷大将軍として陸奥国の蝦夷を降しました。
その東征の際、奥津日女生命、奥津日子命、火産霊命を葛原岡(源氏山)に勧請したのが、巽神社の始まりといわれています。
源頼朝から4代前の河内源氏の棟梁、源頼義が前九年の役(1051-)の3年前である1048年に社殿を改築しました。
その後、葛原岡から現在の地に移され寿福寺の鎮守神として敬われ、寿福寺の巽の方角にあることから巽神社と改称されました。
浄光明寺の管轄を経て明治時代に村社に列せられました。
道路と線路の間のシンプルな神社。
皆さん、通り過ぎてしまいます。
参拝者は、殆んど居ないのが実状。
道路と線路の間のシンプルな神社。
神主等も居ない小さな小さな神社なのね(=゚ω゚)ノ 正面左側に公衆電話あり(=゚ω゚)ノ
2016/03/08と04/27に参拝。
この社は、壽福金剛禅寺の南西に在ることからこの名がついたという。
由緒は古く、延暦二十年(801)、蝦夷征伐に向かう途中の坂上田村麻呂(さかのうえのたまるまろ)が葛原ヶ岡に勧請したのが起こりといわれる。
永承四年(1049)に源頼義が社殿を改修したという伝えもある。
壽福寺の鎮守として崇められている。
境内には、江戸時代の銘が刻まれた手洗い石や石灯籠がある。
祭神は奥津日子神(おきつひこのかみ)、奥津日女神(おきつひめのかみ)、火産霊神(ほむすびのかみ)、例祭は11月28日境内社は諏訪社、神徳は火難除。
タブノキが美しかった。
名前 |
巽神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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坂上田村麻呂、源頼義ゆかりの神社だそうです。
いつもは扇ヶ谷方面のお寺に伺う際に見落としていましたが、今日は一人でしたので立ち寄って参詣いたしました。
由緒ある神社なのですね。
またお参りします♪