とってつけたような石碑があるだけ。
さすが水の都、たくさんの渡があったようですねー、現存しているものもたくさんありますがこちらは跡地です。
初めて散策でしたが桜ノ宮駅でおり大川の左岸から淀川に出て右岸を歩いてますが川の右岸と左岸の街並みの違いあり面白い 右岸沿いは大きなマンションや会社などが多いですね 渡しの場所は昔が忍ばれますね。
昔がしのばれる。
花見に最高の場所です。
ここは桜、最高でした。
2度目の訪問、記念の石柱が立ってます。
花見のベストポイントです。
日本三大祭【天神祭】の船渡御の際にこの源八橋の下を菅原道真公がお通りになられます❣️またこの源八橋は7月25日の天神祭に打ち上げられる【天神奉納花火】の絶好の観覧席にもなります❣️
昭和11年(1936年)に橋が架けられるまで活躍しました。
梅や桜の名所もあり、大変賑わったといわれています。
与謝蕪村も「源八をわたりて梅のあるじかな」と句を残しています。
江戸時代の大坂の市街地と郊外を行き来する渡し船の記念碑で、置かれている場所が市街地側となります。
江戸時代の大阪市の市街地は、大坂三郷と呼ばれ、北組、南組、天満組という、今でいうところの行政区画が3つありました。
大坂城を基点に西側の土地が開拓され、北組、南組となり、大川の右岸側にあたるこの場所は、天満組となりました。
天満組の範囲は、天神橋筋商店街の東側にある碁盤の目の様に整った区画になっている、大阪天満天神社を中心とする一帯との事です。
江戸時代元禄末(1700ころ)、すでに存在していた記録が残る。
名の由来も人名から来たとする説、地名にちなむ説といろいろで不詳である。
左岸の都島側は農村であったが、京街道にも近く、また右岸は天満組で大坂城代配下の与力などの役宅が並んでいた。
さらに桜の名所があることから大へん賑わったという。
上流の「平田の渡し」(淀川・江口コース参照)と共に有名であった。
昭和11年6月架橋され、それによって渡しの使命は終ったが、橋名にその名を残している。
昭和11年6月架橋されて渡しは無くなった。
名前 |
源八渡し跡碑 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-6208-9166 |
住所 |
〒530-0042 大阪府大阪市北区天満橋2丁目1−2−33 |
関連サイト | |
評価 |
3.9 |
私はの船着場でも残ってれば良いのですが、とってつけたような石碑があるだけ。
石碑には、このちわ昭和11年6月に橋がかけられるまで古くから元八渡の船着場であった。
江戸時代から明治の中頃まで両岸の鼓に桜並木が続き花見客で賑わったとある川に向かって左手を見ればJRの鉄橋、右手を見れば源八橋。