名前 |
ぶどうの碑(山形県におけるぶどう発祥の地) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
🍇ぶどうの碑(山形県におけるぶどう発祥の地)以下、ぶどうの碑 裏側の碑文より———————————————————ぶどうの碑建立の記ぶどうの里南陽市赤湯は古来よりいで湯の里として県下に名をなしてきた。
この地のぶどう栽培は遠く江戸時代初期に始まったといわれており山形県におけるぶどう発祥の地である。
川樋地内大洞鉱山が盛りをきわめたころ甲州から来た鉱夫が甲州ぶどうを持ち込んだのが最初であったとも出羽三山の行者が持ちこんだともいわれているが定かではない。
爾来永年にわたり甲州ぶどうが栽培されその原木と思われる古木が昭和三十年頃まで金沢地内に残っていた。
大正十二年、十分一山の開放により斜面ぶどう栽培地が拡大され、デラウエア種が本格的に栽植されるに至った。
昭和三十五年、画期的なジベレリン処理による種なしぶどうが開発されると栽培は全市に広がり恵まれた風土と自然環境、加えて栽培者の努力によってデラウエア日本一の王座を占めるに至った。
ぶどう栽培は南陽市の基幹産業の一つにまで発展し観光面にも大きく裨益した。
南陽ぶどうの今日あるは幾多先覚者の献身的な努力とたゆみない研究によるものであり、なかでも新関角次、石岡末吉、須藤鷹次、丸森輿五右衛門、小林正家、酒井哲、米常太郎各氏らのぶどう栽培にかけた熱意また流通販売に一生をかけた須藤直一郎氏の功績に負うところがきわめて大きい。
千古の謎を秘めた白竜湖と湖面に映るぶどう山の姿は天下に誇る景観でありここを訪れた文人もまた少なくない。
ここに有志相寄りぶどうの碑建立実行委員会を結成しぶどうの碑ならびに斎藤茂吉、折口信雄、林房雄三氏作のブドウの歌碑を建立し永遠にわがまちの誇りとする。
昭和五十四年三月ぶどうの碑建立実行委員会南陽市・南陽市議会・南陽農業協同組合 観光葡萄園振興会 赤湯温泉旅館協同組合 南陽青果物出荷商組合 南陽市観光協会 南陽ライオンズクラブ(湯村五郎・錦三朗撰文)新山昌孝謹書。