過去の出来事を今に伝える貴重な石碑です。
松ぼっくり拾いにもってこいです。
子供の学習で松ぼっくりが必要な方は是非。
幕末期にこの様な事があったのかと勉強になります。
大通りから大阪城への参道に入る脇の茂みにひっそりと佇んでいる。
いまの日本には全くいなくなってしまった「武士」を想います。
過去の出来事を今に伝える貴重な石碑です。
今朝の地方欄の記事です。
慶応4年(1868)正月、将軍・慶喜が逃亡したあとの大坂城で自害し果てた多くの旧幕軍兵士を讃えるために、薩長軍が建立した。
表通りからだと腰の位置くらいの高さの石垣の先にある訪れる人はほぼ居らずひっそりとしている。
今朝の地方欄の記事です。
慶応4年(1868)正月、将軍・慶喜が逃亡したあとの大坂城で自害し果てた多くの旧幕軍兵士を讃えるために、薩長軍が建立した。
1868年1月3日〜6日の鳥羽伏見の激戦に惨敗した幕府軍は、続々と大坂城に入ってきたが既に継戦意欲は失われていた。
6日夜、徹底抗戦の決意『最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ』と激を飛ばしていたはずの慶喜は兵を捨て、秘密裏に逃亡。
それを受けて会津藩、桑名藩の大部、近藤、土方の新撰組も船で辛くも脱出する。
榎本武揚などは、金蔵に残っていた御用金の全額18万両を持ち出した........総大将の突然の蒸発に気付いた大阪城内は完全にパニックに陥っていたのである。
しかし誰もいなくなったと思われた大坂城には、慶喜の決意を信じ一戦覚悟の幕臣、兵士達が相当数残っていたのである。
1月9日早朝、無血開城の交渉の最中、本丸台所より突然火の手が上がる。
4、5、7の各櫓からも出火している。
残兵たちの最後の抵抗だった。
それらはついに猛火となった。
とどめを刺したのは翌10日の火薬庫の大爆発だった。
10日の夕方まで続いた猛火は、大坂城の本丸御殿を含むほとんどの建物を焼き尽くした。
その日入城した薩長の兵は焼け跡の中から、自害した多数の遺体を発見する。
明け渡しを潔しとしない幕府軍の残兵たちだった。
感動した薩長の兵は彼らを武士の鑑として埋葬する。
その年の7月、この埋骨墳の碑は大坂城内に建立された。
今もこの場所にたつと彼らの無念、残念さが聞こえて来るようだ。
名前 |
城中焼亡埋骨墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
鳥羽伏見の戦いの後、大阪城の幕府の侍達は皆が気概を見せる事もないような印象をもっていたが、闘わす逃げた慶喜に憤慨し命をとして気概を示した旗本や侍がいた証がこんな所に残っているの初めて知った。
良い発見ができた。
もっとPRすべきだと思う。