残り300m付近で勾配が急になり、内心後悔しました...
地図と松陰神社付近からお墓まで900mとの立看板を見て歩いて行きましたが、残り300m付近で勾配が急になり、内心後悔しました。
お墓のそばには駐車場があり、道中もレクサスクラスの車が通れるくらいの道幅でした。
ただ、対向車とのすれ違いには注意が必要です。
萩観光で行った吉田松陰のお墓。
高杉晋作、久坂玄瑞のお墓もありました。
【山口県萩市‐幕末から明治維新にかけて活躍した長州の偉人達の墓お墓参り】吉田松陰の生誕地近くにある墓地吉田松陰、久坂玄瑞や高杉晋作などの長州の志士達の墓があります。
萩旅行の際に外せない場所だと思い来訪。
吉田松陰が当時暮らしていた屋敷も再現されています。
また、吉田松陰先生像もあり、彼の当時の暮らしなどが垣間見えます。
山の途中にある、吉田松陰先生のお墓です。
お墓には自由に使えるお線香とマッチが用意されています。
また、賽銭箱のようなものもあります。
お賽銭を入れてお線香を焚き、お参りするのが一般的かと思います。
なお、吉田松陰のお墓の後方には高杉晋作のお墓があり、萩の街、そして日本を見守っています。
幕末と明治維新の時代を駆け抜けました。
墓前に立つと時がゆったりと流れていくのを感じました。
短い人生かもだが長いだけでなく何を残したか人生勉強。
吉田松蔭の一族、高杉晋作と有名どころのお墓が、集積してます。
色々なエネルギーをもらえそうです。
2019/11/4来訪。
東光寺から歩いてここ吉田松陰の墓などを見学して下って、松陰神社まで歩くと下りなので楽です。
吉田家7代大助の養子実父杉百合之助の次男松下村塾を主宰し、多くの俊才を育てた。
安政6年(1859)江戸伝馬町の獄にて処刑される。
行年30歳。
遺髪が入ったお墓ですが手厚く葬られたことがよくわかりますし、周りに入っている人達もものすごい人ばかりでした。
松陰神社から歩きましたが、地元の人に聞くと車じゃないと辛いよと。
確かに辛かった。
吉田松陰の遺骨は世田谷に「松陰神社」改葬されているが、分骨してここにも埋葬されているのでしょうか。
松陰神社の裏山に有ります‼️駐車場有るので車で行けます。
6年前、初めて訪れました。
投稿写真を拝見しましたが、さすがに、ここだけは大きな変化は見受けられませんでした。
「松陰二十一回猛士墓」となっていますが、野山獄の中で思案の上、“松陰”とは別に“二十一回猛士”という「号」も称したそうです。
1回目の猛挙は、盟友宮部鼎三と約束した期日を守るために、脱藩してまで東北行の旅に出発したこととしています。
このため、松陰先生は士籍を剥奪され萩へ還され、杉家(父百合之助の「育」という形)で謹慎となります。
松陰先生の才能を熟知していた「毛利敬親」公は、謹慎は解いて諸国遊学を許可します。
嘉永六年(1853年)一月、松陰先生は直ちに江戸へ出発します。
同年六月、ペリー提督率いる軍艦四隻(黒船)が相模湾に現れます。
松陰先生は、初めて目前に巨大な黒船を見ました。
ペリーの脅しに屈した幕府は、米国大統領の親書を受け取りました。
ペリーは、将軍の返書を受け取るため、来年、再び来航すると言い残し江戸湾を去りました。
松陰先生はペリーが再び来航した際には戦争になると考え、一介の浪人の身であることも省みず、国防に関する「将及私言」という上書を書いて藩邸へ提出しました。
これを2回目の猛挙としています。
3回目の猛挙は下田踏海としています。
獄中にありながら、松陰先生はあと十八回の猛挙を成さねばならないと益々意気盛んだったそうです。
老中“間部詮勝”要撃策を立案し、実行すべく獄中から塾生達に色々と指示したり、武器・弾薬の借用を藩に申し出るなどしています。
安政の大獄で江戸送りとなった際は、『至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり』の強い信念を持って向かったものと思います。
幕府の評定所で計3回の訊問を受けていますが、間部老中暗殺を画策していたことを自ら話したと云われています。
安政六年(1859年)十月二十七日朝、評定所から死罪を申し渡され、昼頃処刑されております。
ところで、松陰先生の墓は四つありますが、こちらの墓は門下生が松陰先生の遺髪を萩へ持ち帰り、家族と門下生で建てた墓です。
「二十一回猛士」を刻んだ墓はここだけです。
合掌。
松陰先生のお墓まで坂道を登るのは大変でしたが、振り返ると萩市街が見渡せる素晴らしき光景でした。
松陰先生は海の向こうを見ていたのでしょう。
2011.8
吉田松陰先生と吉田稔麿さんの墓参りに。
ずっと来たかった場所。
骨はなく、杉家の方が、松蔭のへそのうを入れている、とのことです。
骨は、東京都世田谷区若林にある松蔭神社に埋葬されています。
一族の墓、維新の志士達の墓が並ぶ小高い丘からは、萩の城下町が良く見える。
この城下から数多くの英傑が出た事に感動を覚えました。
吉田松陰旧宅付近にあり、東光寺(萩藩主のお墓)にも近いです。
『今日死を決するの安心は、四時の順環に於て得る所あり。
蓋し彼の禾稼を見るに春種し、夏苗し、秋苅り、冬蔵す。
秋冬に至れば人皆其の歳功の成る悦び、酒を造り醴を為り、村野歓声あり。
未だ曾て西成に臨んで、歳功の終るを哀しむものを聞かず』留魂録。
維新の功労者と萩の乱の関係者が同じ墓地に家族、一族として埋葬されており、維新の動乱を間近に感じられます。
松陰先生の倒幕、草莽崛起を主張した時点から、一族の未来がどうなるのか分かっていたと思われます。
名前 |
吉田松陰の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0838-25-1750 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.3 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
維新の侍たちの墓。
横に一般人の墓もあるけど。
命を燃やして生きた人たち。