山登りの状態で城跡に到着。
全部回ると3時間以上だとか…で、途中で下山した(笑)道も山も整備されててキレイでした♪お天気良くて気持ち良かった☺
標高192m、資料館🅿️の標高83m遊歩道整備されてて登城口に縄張図付の説明板が建ってる🪧3つの尾根に段郭♪堀切♪が施されてる造り🤔特に西側の堀切♬は竪堀♬からの竪土塁♬さらに横堀♬とテクニカルな造りで切岸♬もゴッツい👍️岩盤🪨を削った跡が見えた😲主郭にも縄張図付の説明板🪧眺めは東側に仁位山城がドーン🌋他の周りの城にも包囲されたら 生きたこごちがしない.....ってゆうかホントに生きてない🙄お墓🪦がた~くさん並んでたり😅歴史妄想に浸って御参り🪦するトコロ
直接本丸向かえば比較的すぐ着きます❗上の広場は休憩に最適🎵
岡山駅からレンタカー、2時間以上高速備前ICで降りて1150位平知盛墓や白旗城周り特に赤松氏史跡からは10分と近いのでセットで手前広場資料館は冬場16時まで険しいが20分は掛りません頂上に赤松政範公の慰霊碑3基降りると尼子勝久・山中鹿之介、出雲市の神西?の慰霊碑も在ります其処から三朝安徳天皇碑まで2時間20位の筈。
素人でも15分から20分程度あれば登れます。
頂上や途中の展望台からは街が一望できます。
西はりま天文台も見えます。
入口に杖があるのでそれを使うと便利です。
是非お薦め!!
2021年6月中旬に訪れました。
自分が行ったときは、それほど虫もいなく、初心者の自分にも安心して登ることができました。
西播磨山城11(イレブン)の一つです。
軍師官兵衛をDVDで拝見した後なので、一層城址を楽しむことができました。
隣の歴史資料館で駐車場及びお手洗いを借りました。
お手洗いは綺麗でした。
資料館の入館料はお手洗いと駐車場代と考えたら、安いと思います。
10分足らずで登れる。
歴史に名だたる猛者が参加した有名な山城跡。
良く整備されてるし、登城口の前にある郷土歴史博物館は平日開いてないけど¥200で必見。
天正五年(1577年)毛利氏の勢力下であった播磨を抑える為、織田方の羽柴秀吉が出陣、播磨、美作、備前と三か国にまたがる要所であった上月城の攻略に乗り出しました。
上月城を攻略、播磨を抑えた秀吉は毛利氏と対立しお家再興に燃える尼子氏を入城させます。
しかし、反撃にでた毛利氏凡そ三万の軍勢が上月城を包囲、この時秀吉は三木城攻めに取りかかり、救援に向かうべく主の織田信長に許しを乞うが認められず、三木城攻めを優先するよう告げられました。
毛利氏の大軍を前に孤立する上月城。
やがて城は落ちます。
お家再興の夢叶わず尼子勝久は自害、山中鹿之助は処刑となりました。
実際に登って見て決して大きな城ではないと印象を受けましたが、交通の要所に位置する城であり、その役目は重要なものであったのだと感じられました。
城跡まで凡そ20分程で登れますが、結構坂がきついので山登りに適した格好で行く事をおすすめします。
赤松政範公、尼子勝久公、山中鹿之助公など名だたる将、上月城合戦の戦没者の碑がたてられていました。
歴史的に有名所、様々な思いをはせ登られてみては如何でしょうか。
上月城(こうづきじょう)は、兵庫県佐用郡佐用町(旧上月町)にある日本の城(山城)跡である。
赤松氏の一族・上月景盛(こうづき かげもり)によって築かれた。
嘉吉の乱により、赤松満祐に加担した上月景則(かげのり)やその甥・上月景家(かげいえ)らが幕府軍の追討を受け、上月氏の嫡流は滅亡。
上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。
良い場所です。
頂上まで若干あるきます。
中世山城。
尾根を普請している。
資料館は200円なんですが、ただでも良いくらいの展示でした。
その後城跡に登ったんですが、斜度がけっこう強く、備えつけの曲がった杖ではしんどい。
落ち葉やヌルヌル泥で滑り易い斜面で滑り止めの為に登山用のストックを使った方が良いです。
❗️
尼子勝久公と赤松政範公の碑がありました。
本当にこんな小城に1万もの将兵が立てこもれたのが疑問が残りますが、歴史的には感慨深い城です。
石積み等はありませんが大きめの堀切と竪堀はありました。
鹿之介の碑も山のふもとにありました。
駅からも近いので、乗り継ぎ待ち時間に登れる。
清掃していたおじちゃん達も良い感じ。
かつての大激戦に思いを馳せれば感慨無量❗登場人物も 超一級!
1577年10月23日、毛利輝元の支配下であった播磨を攻撃する為、羽柴秀吉が出陣する。
その前に出陣していた加賀の陣で、総大将柴田勝家と意見が合わず勝手に帰ったことで信長の逆鱗に触れていたので、この出陣に秀吉の進退がかかっていた。
失態の挽回のために信長の期待以上のことをしようと、目的であった播磨だけでなく但馬も攻撃することにし、1577年11月27日にこの城へ攻撃を開始する。
7日目になって、城内の人々は降参しようと城主の上月景貞の首を斬って嘆願する。
秀吉はそれを見た後城に篭っていた人々を引き出して、全員磔の刑にしてしまったという。
(信長公記より)
時期にもよりますが、軽い登山装備があったほうがいいかもしれません。
一応登城路は整備されていますが、サンダルなどでは登らない方が良いかと思います。
25分位で登れます。
資料館の所に車無料で停めれます。
堀切以外何もありません。
史跡は曲輪と切堀くらいしかありませんでしたが、木々の種類が多く、森林浴を楽しめる。
ここは播磨・美作・備前の旧三国にまたがる場所。
毛利軍にとって播磨方面を攻めるための重要な拠点だったようです。
第一次上月城の戦いで、秀吉によって落城してます。
第二次上月城の戦いでは再度毛利軍の大軍に攻められ、秀吉に守りを任されていた山中鹿之助は今の高梁市で首を切られ、尼子勝久は自害してます。
山城の登山口には多くの戦没者を出したことから供養塔がたくさん建てられてます。
第一次上月城の戦いでは、秀吉は城兵や女子供数百人を磔にしたといわれてます。
三国にまたがる交通の要衝地なだけあって、悲惨な戦を経験した城です。
資料館から山頂の石碑までは距離は短いですが急な坂道で疲れます。
ゆっくり登りましょう。
途中上月の町が見える箇所があります。
登り口に杖代わりの木の棒がありますので持参していない場合は使わせてもらいましょう。
以前は自販機がありましたが撤去されましたので飲み物の持参を忘れずに。
まさに、城跡です!
登るのに苦戦してその間に鉄砲で狙い撃ちにされるという難攻不落の城だから。
山登りの状態で城跡に到着。
三木攻めの秀吉の平井陣地跡が瞬時に浮かんだ。
城のイメージ零。
名のみ残す歴史の凄さ。
2年前来登、毛利の大軍に囲まれ、救援の秀吉にも見棄てられて落城、余りにも小さな山城、城跡に立つと良く分かる。
山中鹿之助ファンには是非どうぞ。
名前 |
上月城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0790-82-0670 |
住所 |
|
関連サイト |
http://www.town.sayo.lg.jp/cms-sypher/www/info/detail.jsp?id=2236 |
評価 |
3.8 |
四月初旬の昼過ぎに来訪。
麓に資料館があり、そちらに入館後、登城しました。
資料館は有力者ですが、上月城周辺の歴史や城郭の説明があり、良くまとまった資料でしたので、来館されることをお勧めいたします。
登城の道中はつつじが咲き乱れ、坂を上る足を緩めて城域を目指しました。
織田方に攻め落とされ、その後毛利方に攻め落とされた激戦地ですが、実際に登城すると、予想していたよりも規模が小さいことに驚きました。
草木が刈ってあることもあるが、この時期、山城の本丸や二の丸に自生しているタラの芽やこしあぶらなどの野草はなく、もの悲しさを感じました。
堀切や横堀に守られてはいますが、水の手は麓にしか無さそうで、籠城は大変であったろうな、と…本丸や二の丸から眼下は良く見え、北東には利神城も望むことが出来るなど、要衝の地であったろうと想像出来ますが…秀吉が援軍として陣を張った高倉山も良く見え、麓の様子や音まで聞こえてきます籠城を余儀なくされた城内の心境たるや…現地での感覚を体験されてください。