奥の柳の水に行かれる方がいるのならもう少し整備をし...
奥の柳の水に行かれる方がいるのならもう少し整備をしてもいいと思う。
大内政弘公は、大内氏29代の当主です。
応仁の乱(1467〜1478年)では、西軍の山名宗全に味方するため大軍を率いて上京しました。
政弘公は、勇猛な武将でありながら文化面でも優れた人物で大内文化は盛期を迎えました。
応仁の乱により焼け野原になった京都からたくさんの文化人が政弘公をたより山口を訪れるようになりました。
画僧雪舟もその一人です。
菩提寺は法泉寺です。
今はなにも残っていませんが大きなお寺だったようです。
ダムの下の「法泉寺のシンパク」のところが山門で、このお墓はダムの上なので広大な境内をもつお寺だったと想像できます。
なお後年、義隆公が陶隆房(晴賢)に追われ長門の大寧寺に逃げるとき、この道を通ったようです。
今では「柳の水」より奥は、とても歩ける状態ではないように見えますが、当時は吉敷の凌雲寺(義興公の菩提寺)あたりに通じる道がありました。
大内政弘は大内義興の父。
大内家29代目当主。
雪舟に常栄寺の庭園を作らせたり、文化面でも活躍した。
大昔、このあたりに法泉寺があったが、今は何もない。
道路は草ぼうぼうで車も1台通る程度。
立看板から1メートル歩くと墓がある。
きちんと整備をしてほしい。
名前 |
大内政弘公の墓 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.2 |
大内政弘公と師成親王の墓があります。
毎年大内文化探訪会で清掃活動を実施していますが、師成親王の墓は看板くらいほしいですね…