実際の城域は案内板よりも2倍はありそうです。
かなり広大な城跡で、実際の城域は案内板よりも2倍はありそうです。
電波塔から東側の遺構も確認するため、山口大神宮から登りました。
40,50分位登ると、6,7段位の連郭式の曲輪があり、一部に石垣があります。
この曲輪群の最高地にも案内板があり、隣に電波塔があります。
電波塔脇から数段の曲輪の遊歩道を登ると、城域の中央の広い曲輪にでます。
本丸周囲には石垣が築かれており、南側に毛利氏の積み方のようもの、北側は一番規模の大きい、西側にも部分的に積まれています。
本丸北側にしっかり削平された連郭式の曲輪が10段弱続きます。
本丸北西に堀切があります。
本丸西側に数段の小曲輪と広い面積の曲輪があります。
中央の曲輪の南西方向に降ると、この城最大の(連続)堀切があり、畝状竪堀があります。
南西の稜線が緩く見え、厳重に備えたことが窺えます。
山口大神宮から登ってすぐの箇所にも、やや不明瞭ですが砦跡が残るようです。
続日本百名城の174番築城は戦国大名大内氏最後の当主、大内義長しかしながら、完成前に毛利氏の侵攻の憂き目にあい城を放棄して逃亡。
その後、毛利家が城を完成させた。
目立った遺構は石垣が山頂部に残る程度。
車で来る場合、テレビ塔のある所までは登ってこれる。
山頂からは大内氏館も確認できる。
大神宮の外宮から登った。
登りは石段のつづら折りが続く。
2番目?の展望地の眺めが良かった。
城跡本丸跡には石垣が結構残っている。
登山はしんどいので車で登ろう。
名前 |
高嶺城跡 |
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ジャンル |
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電話番号 |
083-934-2810 |
住所 |
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関連サイト | |
評価 |
4.0 |
高嶺城は、大内氏32代当主 義長公が築いた城です。
義長公は九州豊後の大友宗麟の弟で、大内氏最後の当主です。
弘治3年(1557年)義長公は、毛利氏の侵攻に対し高嶺城で防戦しましたが、形勢不利になり長門国の勝山城に逃れた後、長府の長福寺(現在の功山寺)で自刃しました。
義長公の自刃により、大内氏は名目上滅びました。
大内氏滅亡後、毛利氏は城に手を加え城番を置いていました。
永禄12年(1569年)豊後の大友宗麟の策略により大内輝弘が山口に攻め入ってきた時、この城には寄せ付けませんでした。
元和元年(1615年)徳川幕府から一国一城令が出されたため萩の指月城だけを残し、高嶺城は廃城になりました。
鴻ノ峰は標高338mです。
その山頂には、高嶺城の遺構である石垣や井戸なとが現存しています。