義を貫いた謙信公は好きな武将の一人です。
春日山の銅像より落としを召された感じです。
米沢藩上杉家の家祖(かそ)である上杉謙信(1530-1578)は、「越後の龍」「軍神」と称され、「生涯無敗伝説」を誇る戦国武将です。
越後守護代 長尾為景(ながお ためかげ)の末っ子として春日山城(かすがやまじょう:新潟県上越市)に生まれ、わずか7歳で長尾家の菩提寺、春日山 林泉寺(かすがさん りんせんじ)に入れられました(7歳で仏門に入りました)。
これは、無用な家督(かとく)争いを避けるためだったと言われています。
謙信の幼少期の名前は「虎千代」です。
19歳で家督を譲られ、長尾家当主の座に就くことになりました。
「甲斐(かい)の虎」と称された武田信玄(1521-1573)との間で、北信濃の支配権を巡って、1552〜1563の間に5回戦ったといわれる「川中島の戦い」は、最大の激戦となった4度目の戦い(1561年)が、千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)が合流する三角状の平坦地である川中島を中心に行われたことから、その場所で行われた戦いを総称して「川中島の戦い」と呼ばれています。
※千曲川は、日本最長河川である信濃川の内、6割にあたる214kmを占めます。
信玄の軍師 山本勘助(やまもと かんすけ)の「啄木鳥(キツツキ)戦法」(→キツツキは嘴(くちばし)で虫の潜む木を叩き、驚いて這い出してきたところを捕らえるという習性を、川中島の合戦時に進言した。
つまり、機動力のある精鋭部隊に敵陣の背後から攻撃させ、逃げ出したところを挟み撃ちにする、という戦術を謙信は見抜いたといわれています。
※山本勘助が実在する人物かどうか確証がないこともあり、この戦法を進言したのは馬場美濃守信房だという説もあります。
川中島の戦いは「三太刀七太刀(みたちななたち)」の逸話とともに有名で、戦国時代を代表する合戦です。
謙信自ら武田軍の本陣へ攻め込み、馬上から名刀「小豆長光(あずきながみつ):謙信の愛刀」を振り上げ、床几(しょうぎ:折りたたみ式の腰掛け)に座る信玄に三太刀にわたって斬りつけた。
越後の龍の刃(やいば)を甲斐の猛虎が軍配団扇(ぐんばいうちわ)で受けたとされる「謙信・信玄一騎討ち」の伝説で、軍配には七つの傷が残っていたことから、こう言われています。
信玄は腕💪に2箇所の傷を負ったそうです。
4度目の戦いは両軍共、川中島の合戦 過去最大の死傷者を出し、引き分けに終わったとされています。
信玄は息子 勝頼(かつより)に「武田家を保つためには謙信の力を頼ること」と遺言を残し、一方、川中島の合戦後、「英雄人傑(えいゆうじんけつ)とは信玄こそいう」と好敵手(こうてきしゅ)を称(たた)えていた謙信。
塩不足で困窮していた永遠のライバル武田信玄に塩を送って助けたといわれていて、「敵の弱みにつけ込むことは義に反する」と言う謙信。
信玄死すとの報を受け、家臣たちが出陣すべきと提案するも「人の落ち目につけ込むべきではない」と決して聞き入れなかったそうで、この「義」を貫く精神は…「謙信公以来、我が上杉家には背中を見せた敵を攻撃するような卑怯な軍法はない」と、上杉家二代(初代米沢藩主)の景勝(かげかつ)に受け継がれ、そして今日の米沢市民にも受け継がれているのだそうです。
「正々堂々と戦う」という美学、なんか気持ちいいですね〜❗️ちなみに、謙信のお墓(廟屋:びょうおく)は、国指定史跡 上杉家廟所(うえすぎけびょうしょ)の中央正面奥に鎮座(ちんざ)しています❗️また、景勝の正室である菊姫は武田信玄の娘で、武田氏一族滅亡の際、姉 菊姫の夫 景勝を頼り 上杉家に身を寄せた武田信清(信玄六男)のお墓が上杉家の菩提寺である春日山 林泉寺(かすがさん りんせんじ)にあります。
謙信と信玄の、敵味方という立場を超越した「互いを認め合える」(尊敬し合える)関係というのは素晴らしいですね〜❗️👍 当主同士という関係になければ、2人はお互いを信頼し合える親友となり、上杉・武田連合軍(国)として天下統一を目指したのかもしれませんね〜❗️長くなりましたが m(__)m 以上です❗️
訪れたい場所でやっと念願が叶いました。
物凄く歴史に詳しいわけではないですが、各地に同じ人物の由縁の地がありますね✨それはそれで訪れる側としては楽しみがあり。
正解も何もない、これがまた歴史に興味を持ち好きになるきっかけになるのかな✨良いですよねぇ米沢に住んでる方は😂毎日でも観にこれる😍
私が尊敬し愛する謙信様の銅像❗️素敵です🥰1度訪れたいと思ってたので来て良かった❗️ 景勝さんと兼続さんも好きだけど…謙信様には敵わないね(笑)😁銅像の前で改めて「義」について考えさせられ、身が引き締まる思いになりました‼️😉
武田信玄公と違って、ちょっとスリムかなぁー!カッコいいですね!(^_^)y-゜゜゜゜゜
これって必要ですか?だって、謙信公は米沢に移り住んでいないじゃありませんか。
米沢は、伊達氏にとっては先祖伝来の地で仙台六十二万石になる出発点であったけど、上杉氏にしたら望まぬ地だったんでしょうね。
長尾景虎が上杉氏の養子当主なり上杉謙信を名乗ったのは関東進出が目的だったからです。
すでに戦国時代になっていたけど、安土桃山時代になるまでは室町時代だったわけで、上杉氏は室町幕府の関東管領という役職だったから、養子になればそのまま関東管領という役職になって、関東進出が可能になるからだ。
残念でしたね。
義を貫いた謙信公は好きな武将の一人です。
米沢では鷹山公が目立つ中で数少ない謙信公ゆかりのモニュメントの気がします。
座像の隣にある解説碑には、謙信公について簡潔に纏められておりますのであまり知らない方はご一読する価値があると思います。
この上杉謙信公像の姿は川中島合戦の時の姿を模したもののようです。
謙信というと僧兵のような頭巾をイメージしてしまいがちですが、アレは間違いみたい。
実際に上杉神社に伝来している頭巾を見ましたが、烏帽子形白綾頭巾という川中島で使用したみたいな事が書いてありました。
しかも顔をぐるぐる覆えるくらい頭巾の端が長かったです。
上杉謙信といえば僧兵っぽい白頭巾姿の勇猛なイメージだったので、この烏帽子っぽい頭巾にちょこんと座ったおじいちゃん姿にガッカリでした。
もう少しカッコいい像にしてほしいですねー。
戦後武将最強とも言われた往年の謙信像毘沙門天を信仰し(義)を貫いた人生👊風林火山とも言えば武田信玄、川中島の合戦は授業で習いました😄
上杉謙信は、毘沙門天を信仰し、戦国時代では珍しい、正義を貫いた人物です。
清廉潔白な姿勢は死ぬまで変わらず、その生き方をみて、直江兼続等も義や、愛を掲げるにいたります。
ただ、政治的には部下の掌握に苦戦し、度々国内でもめているのも事実です。
それらを含めても彼が、この時代の英雄であることにかわりはありません。
この像がそれに相応しい上杉謙信像かどうかは、賛否両論ではありますが、現実の姿を忠実に再現しているものこそ、私は良いと思います。
英雄であるが故に姿を良く見せる必要はなく、その生き方こそが一番大事なことなのではないかと思います。
現代人が彼から学ぶべきことは多くあるのではと思います。
明治維新を迎えた時の城主は上杉家ですが、伊達家の居城の頃の印象が強いため謙信公の像には少し違和感を覚えてしまいます。
どういう時代考証をしたのか。
春日山の像に比べて、何のリアリティーも美しさもない。
ダサいおじさんになっている。
上杉謙信は日本人が誇りに思える人物。
こんなものでイメージされたら、決して日本のためにもならない。
謙信をイメージするなら、春日山に行く。
米沢は好きな街なのに、この像の存在が本当に台無しにしている。
例え本物がそっくりであったとしても、イメージの方が大切。
日本が本当に弱っている時に誇りに思える上杉謙信のイメージをもっと大事にしないといけない。
春日山の謙信像のレプリカを据えるといい。
名前 |
上杉謙信公之像 |
---|---|
ジャンル |
/ |
電話番号 |
0238-21-6226 |
住所 |
|
営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
関連サイト | |
評価 |
4.1 |
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上杉謙信 (一五三〇 ~ 一五七八)戦国時代の越後国の大名。
関東菅領。
山内上杉家十六代当主。
越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景の四男として生まれ、初名は長尾景虎。
内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけでなく、産業を振興して国を繁栄させた。
他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、特に宿敵武田信玄との五回にわたる川中島の戦いはよく知られている。
さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが四十八歳で志半ばで死去した。