空き区画や放置されてしまったお墓がちらほら出てきま...
1923年に開園した霊園。
府中市と小金井市にまたがる広大な霊園で、東京ドーム27個分の128ヘクタールの広さを誇ります。
この墓地が出来たのは、1900年頃、東京は5つの公営墓地がありながら、人口増加により深刻な墓地不足になり、当時は開発が進んでおらず、しかし交通網が整っていたこの地に新しい墓地が誕生しました。
1934年に東郷平八郎が埋葬された事を機に、この墓地の名前は広まり、それ以降、多くの人たちが利用するようになりました。
その中には、各界の著名人も少なくありません。
写真にあるのは山本五十六、東郷平八郎、高橋是清、西園寺公望、北原白秋、長谷川町子、岡本太郎・かの子・一平、与謝野晶子・鉄幹、堀辰雄の墓地です。
とにかく広大な墓地で、生い茂る木々もとても立派。
故人がゆったりとすごすのにうってつけの場所だと思います。
父方の祖父母、伯父が眠る墓地。
年子の兄が亡くなって2年。
その年齢を越えてしまった事を想う高齢の父を連れて、伯父の命日の近くで墓参。
私が子供の頃はずいぶん手前に車を停めて歩いた記憶があるのだが、最近は1番近い水場まで乗り入れOKになったそうで、高齢者を連れて行くのも楽になりました。
子供の頃には祖父の命日に合わせて八重桜の季節のお参りだったと記憶するが、一昨年伯父は紅葉の季節に亡くなったので、2022年は昨年に続き秋晴れの紅葉が綺麗な気持ちの良いお参りになりました。
コロナ禍でも平日に来れば混雑も無くゆっくり心静かにお参りが出来るので、来年もまた平日に墓参するつもり。
とても広い。
番号がわかればタクシーで目的の墓まで往復できると聞きました。
桜並木、結構な長さがあります。
雄大でとても綺麗でした。
20区近くの、南北に続くバス通り沿いの両側に咲いていました。
一枚目は、新小金井の駅前の写真で、二枚目が多摩霊園です。
都営多磨霊園は広大な土地に著名人が沢山眠っている霊園です。
私の知人の御先祖様の墓所も有ります。
墓参りとお花見が一緒に出来るところがすばらしいといつも思います。
広々として散歩に良い。
お墓ですが綺麗に管理してあり、遊ぶのは違いますが公園に近いです。
お彼岸で父のお墓参りに行って来ました。
お天気も良く暖かな日でした。
モクレンが綺麗に咲いて居ました。
広大でのんびりとした霊園時代の流れか、空き区画や放置されてしまったお墓がちらほら出てきました。
管理もほどほどに行き届いており、散歩するだけでも気持ちいい場所です。
とにかく広いです。
バス停の時刻はだいたい20分間隔です。
ここにはわたしのフランスのご先祖様が埋まっているそうです。
墓石も漢字ではないですが、ほかにも英語や外国の言語で掘られた墓石をちらほら見かけます。
多国籍な墓地なのだと思います。
道路は製品手入れされていてきれいです、そして秋の時期は金木犀やコスモス、彼岸花などの花が咲いていて視覚も楽しいです。
(墓地で楽しいとは)距離的に年に一度しか来られませんが、あと何回お参りできるのかと思いながら通っています。
お墓の敷地にかばんと上着を置いて掃除していたところ、通りすがりにですが、外注の清掃のおじさんに、「自転車やバイクに乗ったひったくりがいるから気をつけてね」と言われました。
そのおじさんも上着をパッと持っていかれてしまったそうです。
確かに、茂みに隠れてママチャリに乗ったままスマホを見ている(お墓参りの人には到底見えない方)手ぶらの人間を見掛けることがありました。
女性用お手洗いで、下半身を露出した男性を見ることもありました。
防犯カメラなど無いと思いますし、夜は真っ暗になりますので、気をつけてください。
治安以外は◎なのですが。
女性一人のお参りはおすすめしません。
府中を代表する霊園。
場所とも環境とても優秀です。
春の御彼岸は垂れ桜満開ですね✨今日は彼岸の入りで7分咲き?位~蕾が多い木でしたソメイヨシノは1つの木に2~3個咲いてました。
たまたま行く機会があったのですがとにかく広大な土地意外にも紅葉がきれいで感動しました。
静かでいいところですね。
府中本町から武蔵野公園への立ち寄り先. 墓地ではあるが, 楓が美しい.
広い!! ただただ広い!!みたま堂で一時預かりしているのでお願いしましたみたま堂正面でお焼香して右回りのみで中に入れますエレベーターがありますので足が悪くても大丈夫ですみたま堂の外(右側)には休憩所がありましたみたま堂は無駄な空間が多くて、四角い建物だったらもっと収納出来ると思う都税で建てた施設だったらただただ税金の無駄使いですね😤
広大な霊園ですが、順次植栽が整えられていることがよくわかります。
新旧様々な形状のお墓があり散策しながら拝見するのがお勧めです。
秋の紅葉、春の桜は美しい。
広いので散策には車か自転車必須。
数多の著名人も眠っています。
2016年5月15日ブブノワ姉妹記念碑の除幕式が多磨霊園で開かれた。
1917年のロシア革命後間もない時期に来日し、戦後まで長く日本で活躍したロシア人の画家、ワルワーラ・ブブノワ1886〜1983年と、妹のヴァイオリニスト、小野アンナ、1890年〜1979年姉妹の功績をたたえる。
記念碑建立を企画している北星学園大教授の小野有五68歳らによると、ブブノワ姉妹と日本との関係は、アンナが当時、ロシアに留学中だった小野有五の父で、後にロシア文学者になる小野俊一と結婚したことがきっかけ。
小野俊一の帰国に伴い1918年に来日した小野アンナは、日本でバイオリン教室を開き、前橋汀子ら著名なバイオリニストを育てた。
姉のワルワーラ・ブブノワは1922年、小野アンナの元に向かう母親に付き添い来日したが、両国関係が悪化するなかで帰国が難しくなり、その後、早稲田大学などでロシア語教師として働き、翻訳者や研究者を育て、画壇でも国内の芸術家と交流を深めた。
1935年小野俊一は小野アンナと離婚した。
戦後、別の女性との間に小野有五が生まれたが、終戦後の混乱期、ブブノワ姉妹は都内の小野家に身を寄せた。
小野有五は小野アンナを「もう一人のお母さん」と敬愛し、家族同然の親交があったという。
ブブノワ姉妹は1960年ごろ、ソ連となった母国へ戻ったが、小野有五は多磨霊園にあった姉妹の母親やワルワーラ・ブブノワの夫の墓を管理してきた。
2016年2月この墓を小野家の墓所に移したことをきっかけに「姉妹が日本で果たした功績を残したい」と記念碑建立を決めた。
この取り組みに、ワルワーラ・ブブノワや小野アンナとゆかりある人々や芸術・教育関係者らが賛同し、移設費用など200万円のうち、半分程度の寄付も集まった。
高さ90cm、幅70cmの記念碑には、ワルワーラ・ブブノワの版画作品「聖母子」とともに、姉妹の略歴が刻まれる。
小野有五は「姉妹は当時のロシア文化の最前線を日本に伝え、影響を与えてきた。
建立が2人の足跡に関心を持つきっかけになってほしい」と話した。
小野英二郎1864年7月〜1927年11月筑後国柳河藩士の子福岡県出身の財界人。
柳川藩士の家に出生。
立花四天王の小野鎮幸の末裔と言われることが多いが、小野鎮幸嫡系の大組組頭世襲家の小野家との関係は不詳。
1880年同志社英学校2年に入学。
1883年新島襄から洗礼を受ける。
1883年末、徴兵令改正により私立学校は徴兵免除の特典を受けられなくなったため、官立学校への転校を図るが失敗した。
1884年オバーリン大学に留学。
大学卒業後はミシガン大学大学院に進み、Ph.D.を取得。
この時デトロイト・トリビューン紙は、「日本の小野英二郎、大学における外国人の注目すべき業績」という見出しで大きな記事を載せた。
これは日本経済についての英語による初めての学術研究でもあった。
帰国後、橘蔭学館教頭を経て、同志社に赴任。
同志社政法学校の創立事務を担当し、1891年の開校後は教頭に就任する。
1896年日本銀行総裁川田小一郎の招きにより日本銀行に入行、同志社を去る。
その後日本興業銀行に移る。
1924年第4代日本興業銀行総裁に就任した。
1927年在職中に心臓麻痺で死去。
息子に、長男でロシア文学者・生物学者・社会運動家の小野俊一(その妻はヴァイオリン教師の小野アンナ)、美術評論家の税所篤二、足利赤十字病院創設院長の小野康平、オノ・ヨーコの父親で銀行家の小野英輔、らがいる。
娘の寿満子は初代国連大使の加瀬俊一の妻。
孫に、音楽家・芸術家のオノ・ヨーコ、彫刻家の小野節子、外交評論家の加瀬英明、地理学者の小野有五、画家の石井茂雄、等がいる。
音楽家のショーン・レノン、映画プロデューサーの小野光輔は曾孫。
歴史が眠る多磨霊園南俊二 みなみしゅんじ 1882年9月~1961年12月大正・昭和期の実業家(貿易・造船)埋葬場所:16区1種8側大阪府出身。
1903年大阪高商(現、大阪市大)を卒業し、日下部商店(のちの安宅商会)に入社。
1909年南商店設立以降、大豆・米穀・肥料貿易で蓄財したが、商品や株の思惑投機で失敗を重ねた。
昭和期に入ると製鉄業、砂金鉱業、セメント業など製造部門に方向転換した。
1936年大阪造船所設立でその後の活動基盤を築いた。
戦後は第2次計画造船で同社を再建し、'55オリンピック・チャレンジャー号船団を30億円で買収して南氷洋漁業権を確保するなど、億万長者の一人に数えられた。
合理的節倹主義の経営方針で有名。
他に東洋オリーブ株式会社初代社長、日本造船工業常任理事などを務めた。
享年79歳。
墓所*墓石は和型「南家之墓」。
右側に墓誌がある。
戒名は清徳院殿建譽俊英大居士。
妻は北枝。
長男の南景樹(みなみ かげき 1910年〜1990年1月同墓)は父没後に大阪造船所や東洋オリーブ株式会社の二代目社長を引き継ぎ、子会社である大島造船所の初代社長を歴任した実業家である。
景樹の戒名は光徳院殿正誉景樹大居士。
妻は秀子。
*株式会社大阪造船所は2000年株式会社ダイゾーと社名を変更。
現在は化学メーカーに転身している。
現在の代表取締役社長である南宣之は南俊二の長男の南景樹の長女と結婚した南尚(大阪造船所3代目社長)との間の長女の婿である。
日本で一番歴史上の人物が眠る墓地ではないでしょうか。
広くて、静かで、車も来ないので、散歩道やジョギングにもってこいです。
でも、夜はちょっと怖いかも。
桜の隠れた名所です。
巨木、趣ある古木も数多くあり、桜が咲く頃はのんびり散策するのがたのしいです。
夜な夜な、スペースコロニーからの音声で話し掛けているTerrorist暴力団港会等暴力団関係者は、戦前生まれである。
生き返ったら戦前の復讐とわけのわからない事を言いました。
幽霊なのでスペースコロニーで大暴れして、暴れられるのは、戦前警察関係者だけだとも言いきっていた。
名前 |
都立多磨霊園 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
042-365-2079 |
住所 |
|
関連サイト | |
評価 |
4.2 |
周辺のオススメ
![](./loading.gif)
1923年(大正12年)4月「多磨墓地」として開園した、日本初の公園墓地。
設計者は当時の東京府職員井下清氏(園内8区に墓所がある)。
数多の著名人の眠る場所として有名であるが、当時のアール・デコ様式を伝えるものなど多くの古い建造物も残っている。
・名誉霊域のシンボル塔(旧噴水塔)・小金井門の旧噴水塔・11区中心の旧噴水塔以上の三大噴水塔はじめ、・12区の旧水盤・13区の旧給水塔・3区旧水場(机型)・4区に複数ある旧水場(四角型、八角型×2)・5区公園旧水場・10区と16区の旧水場・4区の旧下げ花置き場・2区旧水場(四角型)及び旧焼却炉などなど。
これ等の多くは顧みられず風化の進むものが多いが、歴史的文化財として補修保存が望まれる。